
▼更新しました(2009) ここのヒトコト部ってjavaで書き出してる(らしい)ので、あんてなとかみたいなものが自動で持ってってくれないっていう告知の意味がなさそうな告知になっております。
さて、本当に久しぶりの講義を追加しました。ちょっぴり長めなんですが見てってやっておくれやす。
あといくつかの講義を並行して作成中です。出来上がり次第追加していきたいと思いますのでまたヨロシク。
てかこのヒトコトってどうやってアップすれば良いんだっけ?と悩んだのはナイショの話。
▼ロシアで二月革命始まる(1917)
後期ロシア帝政、いわゆるツァーリズムを打倒した1917年3月の革命。旧暦で2月なのが二月革命と言われる所以。
それまでに蓄積されてきたロシアの社会的矛盾は第一次大戦によってを一気に表面化された訳ですが、2月27日(旧暦 14日) に首都ペトログラード(現サンクトペテルブルグ)で遂に労働者のストライキが起こります。
3月3日(旧暦2月18日)には首都のプチロフ工場から始ったストライキは自然発生的に全市に拡大し、3月8日(旧暦2月23日)より本格化、鎮圧する側のはずの軍からも次々に反乱が起きます。
13日(旧暦2月28日)には首都での政府軍は解体され、権力は労働者兵士ソビエトの手に帰します。
3月15日(旧暦2日)ニコライ2世は帝位を弟に譲る意志を表明しますが拒否され、ここに300年にわたるロマノフ王朝(ツァーリズム)が崩壊します。
一方で穏健な改革を望む国会臨時委員会はペトログラード・ソビエトの条件付き承認のもと、同日臨時政府を組織し以後臨時政府とソビエトとが並存する二重権力体制が現出します。
この二重構造が十月革命、いわゆるロシア革命をもたらしロシアはソ連へとその体制を大きく変える訳ですね。
ロシア帝政ってのは農奴制を基礎に厳格な身分秩序と官僚制機構を骨格とした絶対君主制で、ツァーリズムは更にそこから教会を国家の隷属的機関化したこと、大貴族(ボヤール) を徹底的に弾圧して弱体化しツァーリへ権力を集中させたのが特徴かな。
だから基本になる農奴を解放した時点で崩壊は免れなかったと。
▼江戸幕府、寺社奉行を設置(1635) 定員は4名。寺社に関する行政・訴訟を管轄。後にはキリシタン取り締まりや関八州以外にいる旗本の訴訟も扱うようになっていたようです。元々幕府初期に金地院崇伝がやっていた仕事を崇伝死後、職制として規定したってイメージでしょうか。
寺社奉行・町奉行・勘定奉行を三奉行と総称するんですが、寺社奉行だけは大名格と高くて奏者番を兼ねることが多かったようです。と言うか奏者番の人から寺社奉行を任命するというパターンとイメージした方がわかりやすいかと。
そもそも奏者番に任命されるということはすなわちエリートの証明であって、その中から選抜される訳ですから寺社奉行はまさにエリート中のエリートということになります。まぁ崇伝がやってた仕事ですから当然と言えば当然なのかも。
寺社奉行→大阪城代→京都所司代→若年寄→老中と言うのが幕閣のゴールデンコースで、それだけ重要ポストと言えるでしょうね。
老中を筆頭にこれらは全て幕府の行政中枢ですから、必然的に譜代大名から選抜されることになります。
ちなみに大岡越前(大岡忠相)も晩年になって吉宗の計らいで大名しか就くことができない寺社奉行に大抜擢されてます。家禄を加増して旗本なのに大名扱い。
後にも先にも大名以外で寺社奉行になったのは忠相ただ1人とは言うものの、忠相自身にしてみれば、最初は奏者番にも任命されなかったんで他の寺社奉行に控え室へも入れてもらえないいじめにあったり、自身の年齢(当時60歳を越えていた)もあって相当苦労したらしく、町奉行からの棚上げ的異動って捉え方だったようです。
▼ベルリンの壁崩壊(1989) 1949〜1961年の間、約250万人の東ドイツ市民が西ドイツに脱出し東ドイツ経済が壊滅的打撃を受けます。そこで東ドイツは東ベルリンと西ベルリンへの通行を遮断する障壁を構築します。これがベルリンの壁。
当初有刺鉄線とブロックだった壁はその後監視塔と銃座が追加され、地雷に守られた有刺鉄線付きのコンクリート壁に発展します。80年代までに壁は45キロに渡ってベルリン市を分断、その後更に120キロ延びて西ベルリンを囲い込み東ドイツは西ベルリンを完全隔離してしまいます。
38度線と並んで東西冷戦の象徴となったこの壁も、1989年10月から東欧に吹き荒れた民主化のうねりの中、遂にこの日東ドイツ政府は西ベルリンを含む西ドイツとの国境開放を発表。ベルリンの壁は打ちこわされて東ドイツ市民は西側と自由に往来できるようになります。これがベルリンの壁崩壊。
もうTVで何度もやってて有名なお話になっちゃってるんで詳細は触れませんが、この国境開放はちょっとした間違いから雪崩式に進んだもので、ある意味時代の流れには誰も逆らえないんだろうな〜って言うのを強く感じる出来事であったなと思う次第です。
ドイツやロシアに限らずこの時期の東欧各国の動きはすごくダイナミックなんで、是非とも触れておいてもらいたいところ。
▼蘇我入鹿、斑鳩宮に山背大兄王を襲撃(643) 王は一旦生駒山へ逃げますが王の側に付く者も少なく「一身のために百姓万民を労するに忍びず」として斑鳩寺(法隆寺)に戻り一族共々自決します。ただこのあたりは講義できっちりお話してるので割愛とw。
▼米、世界初の水爆実験に成功(1952) 水爆とは言うまでもなく水素爆弾の事なんだけど、そもそも水爆と原爆の違いは、原爆がウラン化合物の原子核へ中性子をぶつけることで核分裂を引き起こし、その核分裂によって飛び出した中性子が更に別の原子核の分裂を・・・というように連鎖的に行われる核分裂によって出るエネルギーを利用するのに対して、水爆は重水素の同士の原子核を融合させヘリウムを作り出す時にできるエネルギーを使うと言うところにあります。それだけ聞けば水爆ってクリーンな爆弾(なんだそりゃ)って感じですが、太陽を見てもわかるように核融合反応をおこさせるには数千万度の高温が必要です。その高温を発生させるためにどうしようか?原爆使っちゃおうと、こういう訳です。原爆を重水素で包んでまず原爆を爆発させ、それによって生じた高温を利用して核融合反応を行わせると。
この実験で使われた重水素は液化したものだったので「湿式水爆」と言います。その後ソ連が重水素をリチウムと化合させ固体化したものを使うことで大幅な小型化に成功します。これが乾式水爆でこのことで水爆の戦闘機への搭載が可能になった訳ですね。
まぁ水爆も原爆同様にナチスドイツの技術者がそもそも研究を開始したもので、こういうことを知ってくるとあながち「ナチスの科学力は世界イチィィィィィィ!」ってもウソじゃないなと思う次第なのです。
▼劉少奇失脚(1968) 読みはリュウ・シャオ・キかな。1959年の毛沢東引退によって国家主席、65年に国防委員会主席となって中国の最高権力者になります。でも社会主義建設に於いては重工業優先・エリート尊重と言った考え方だったようで、このあたりが毛沢東のご機嫌に召さなかった模様。66年から始まった文化大革命では「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」とか「中国のフルシチョフ」とか言われて徹底的な批判を受けちゃう。文革が毛沢東の意向だったのは今更言うまでもないことだけど、既に圧倒的なカリスマだった毛沢東をしてもここまでの大規模なキャンペーンを張らなければ最高権力者をたたき落とすことができないんだなってのを思うと権力集中の独裁国家wとは恐ろしいものですなw。
1968年十二中全会で正式に中国共産党から除名され翌年には投獄。失意のままお亡くなりに。その後、同じく文革で叩かれまくったト小平(よく無事に政界復帰して頂点まで上り詰めたなって思う)が中国の最高権力者になる頃には名誉回復されるんだけど、実際のところトのおじいちゃんもやりきれなかったでしょうな。中国の今の状況を見ていると余計にそう思っちゃうわけでございます。
▼インド、インディラ・ガンジー首相暗殺(1984) ガンジーってもあのおじいちゃんじゃなくってこの人はネルーの娘。ガンジー姓ってのはインドの政治家に多いんだけど、あのマハトマ・ガンジーとはぜ〜んぜん関係ないのでそこんとこよろしく、みたいな。
1966年シャストリ首相急死を受けて第3代首相に。69年にとっても社会主義寄りな政綱を打ち出して反対派を切り捨て、71年の総選挙で圧勝、同年のバングラデシュ独立戦争にも介入して国内でも大人気だったんだけど、権力を持って来るとだんだん強圧的になってくるものらしく、77年に政界引退に追い込まれる。
それでも80年の総選挙には再び復帰して圧勝。ちゃっかりと第6代首相に返り咲きを果たしちゃう。人材が居なかったのかのど元過ぎて熱さを忘れたのか・・・。
パンジャブ州などで州分離要求や社会経済的対立が激化する中、同州出身の2人のシーク教徒護衛兵により官邸で射殺。これをきっかけとしてインド全土でヒンドゥー教徒とシーク教徒の暴動が拡大していきます。
パキスタンやバングラデシュの独立がそうですが、このあたりのイザコザは全部宗教的な考え方の違いへ帰結しちゃいます。それは国家さえも動かしていく訳ですね。
そういうところからもっとも遠いところにいる脳天気な日本人としては理解しがたい面もあるんですが、突き詰めていけばそれこそが人間を行動させる根本なのかもしれませんナ。
ちなみに日本人にとってのインド人の象徴wであるターバンを巻いてるのはシーク教徒で、ヒンドゥー教徒はターバンを巻きません。インドの方って割とよく日本に来てらっしゃいますので覚えておいて損は無いかと。
▼スエズ動乱始まる(1956) 10月26日にスエズ運河の国有化を宣言したエジプトに対してイスラエル軍が侵攻した日。続いて英・仏も進撃し国際的な緊張状態になった。これをスエズ動乱と呼びます。第二次中東戦争といわれるのがコレ。
そもそもナセル大統領はアジア=アフリカ会議(1955年4月)に出席した時に周恩来やネルーと会談して影響を受けまくっちゃった訳です。積極的中立を唱えてバグダード条約機構(中東条約機構)への加入も拒否して、その一方でソ連からの軍事援助の約束も取り付けるし中華人民共和国を承認したりとどう見ても社会主義陣営国へ接近してるようにしか見えなかった。そんなところに協力する訳にはいかないってことで米英は1956年7月にアスワン=ハイダムへの建設援助を撤回する。それじゃあとばかりにナセルも1956年7月26日(革命記念日)にスエズ運河の国有化を宣言して、運河の国有化によって得られる収入をアスワン=ハイダムの建設資金に充てると言い出す。
スエズ運河会社の二大株主だった英仏は国連安全保障理事会に提訴して、とりあえず外相会議でスエズ運河利用の三原則については合意するんだけど、運河を国際管理下に置くという案は安全保障理事会でイスラエル以外のアラブ諸国と関係の深いソ連の拒否権発動で廃案になっちゃう。
そんな中のイスラエルの侵攻。もちろんバックには英仏。イスラエル建国っていうのは主に西側にとっては良いように使える駒を作りたかったってことになるんだけど、おそらくそういう風に使われた最後の例がこれじゃないかな?と思う次第です。ただこんなのを国際社会が放っておく訳もなく、国連の緊急特別総会が開かれ11月2日に即時停戦とイスラエル軍、英仏軍の撤退を要求する決議案を採択。さらに同月5日に国連緊急軍を派遣することをも承認します。
当時アラブに利権を持ってなかったアメリカまでもがアラブ支持を表明するに至っては、英仏も折れざるを得なくなった訳ですな。これによって中東で絶大な影響力を持っていた英仏に代わりソ連が巾を利かせるという構図ができあがった訳です。
▼榎本三恵子、ハチのひと刺し(1981) 東京地裁で開かれたロッキード事件丸紅ルート公判で元首相秘書官夫人の榎本三恵子が出廷して元秘書官が5億円受領を認める発言をしていたことを証言した後「ハチは一度刺したら死ぬというが自分も同じ気持ち」と心境を語ったことで流行語になった。たしかこの人ひょうきん族に出たりヌードを披露してたりしてたよねぇ。なんかちょっと見ていて寂しいと言うか寒いというかヘンな気持ちになったのを覚えています。
ロッキード事件と言うのは1976年2月に発覚したもので、そもそもは米ロッキード社が自社の航空機を各国首脳へ売り込むための贈賄工作などを記した極秘資料を、「間違えて」米上院外交委員会多国籍企業活動調査小委員会へ「誤配」されたことがきっかけって「言われてる」。(多くは語れないw) 日本へも全日空や丸紅、右翼の超大物だった児玉誉士夫の3つのルートを通じて総額30億円の資金を投入したアプローチがあったようで、捜査もその3ルートから行われてた。最近ではもうロッキード事件の報道もされなけど、よく言われていた「丸紅ルート」とかってのはこのことなんですね。田中角栄元首相の逮捕にまで及んだ事件の詳細は長くなるのでまた別の機会に。