内乱の予兆!未だ皇位は安定を見ない。天智が己の死後に想定した事態とはいかなる姿であったのか?次期後継者の座を狙う大海人皇子が遂に動き出す。古代最後にして最大の内乱、壬申の乱、その前夜におこった事とは?

■ 鼎鳴動す〜大皇弟大海人皇子

なんですか「鼎」って。って言うかどう読むんです?なんかT2ファージを思い出させますケド。。。

T2・・・懐かしいですねぇ(笑) これは「かなえ」って読みます。「あがた」じゃないですよ。実はセンセは昔読み間違えたんですよね。

誰にだって間違いはあんのよっ!でも実物見たらわかるけどこれってもう思いっきり象形文字なのよ。似てるよー。

で、その鼎が動くと何があるです?ラップ現象か何かじゃないの?

『日本書紀』には天智天皇崩御の時の様子として・・・

ボケも無視か・・・(ぼそ)

(構わず)「大炊寮にあった八つの鼎がひとりでに鳴った。ある時はひとつの鼎が鳴り、ある時は二つ、ないしは三つの鼎が鳴った。ある時は同時に八つの鼎が鳴ったりした」とありますね。

中国では鼎って王朝の宝器とされてたのね。それがひとりでに鳴るってことは王朝の存亡の危機を暗示してるのよ。
『日本書紀』では天智の死ってモノがはっきりとひとつの王朝の終焉を意味してるって意図で描かれてると見ていいと思うのね。それは当の天智も大友皇子も大海人皇子も全員が全員の立場でわかりすぎるくらいわかってたことだと思うんだけども。

当時大海人皇子は大皇弟として有力な後継者候補だった訳ですしね。

うーん、それはどうかな。村下としては天智天皇治世下から次期天皇は一貫して大友皇子と定められてた、って見てるんだよ。大海人皇子には全く皇位継承権は認められていなかった。

え?でもそれで行けば前にセンセのお話なさってた「世代間継承」ってお話に合致しないじゃないですかー。欽明を基準として舒明とか推古から皇極、孝徳。それこそ斉明重祚にしたって「世代間継承」ってのは無視できないところであるでしょう?乙巳の変だって中大兄皇子と有間皇子の軋轢だって原因はまさしく同世代における皇位継承権の争いじゃないですか。言ってしまえば中大兄皇子践祚だってそういう側面は大きいと思うしー。

良いところを突くねぇ。別講義で話するけど中大兄と有間、二人の関係ってのは単に世代間継承だけが問題だったワケじゃないんだよ。
でも「世代」ってのは無視できない重要なファクターではあるね。

ですよね。親子程年の差がある有間皇子でさえ中大兄の皇位継承の妨げになるにも関わらず、年齢差もそれほどない大海人が少なくとも天智崩御直前まで大友への対抗馬と考えられていなかったって言うのはおかしいじゃないですか。

そこには天智の権勢の大きさとか大海人の立場が暗に見え隠れしてない?

大海人による皇位継承の放棄ですか?

はっきりそう言ってたワケじゃないと思うよ。でも少なくとも天智が病に倒れるまでは皇位に色気をみせるような素振りはしてなかった、って言うか大海人皇子はある意味天智を補完する役目を担っていたんじゃないかな?と。

補完って?一心同体とか?

同母の兄弟ってことで天智の大海人に対する信頼はバツグンだっただろうし、逆に大海人も表向きは天智と心中するくらいの勢いだったんじゃない?だって大海人がにわかに注目されるのはまさに天智崩御の直前なんだよ。それまでは天智の黒子に徹してたって見て良いくらいに歴史の表舞台に出て来ないでしょ?

でも「大皇弟」って言うのは・・・

これはよく後代の皇太弟と混同されがちなんだけど、あくまで大皇弟ってのは天皇の弟に対する尊称であって皇太子ならぬ皇太弟とは全く意味合いは違うの。

皇太子の制度ができあがるのはこの後の天武の時代になってからです。

うん、村下としてはまだこの時期に次期天皇を確定させておく制度は無かったと見てるのよ。
その中で大友皇子がその座に就いた太政大臣こそが後の皇太子に準じるものであっただろうと。

なんかややこしいですね。太政大臣って太政官の最高職って感覚あるからなぁ。

この後の天武朝で見られる皇太子の創設ってのは天皇の直系に皇位を継承しようって言う方向の現れなのね。これは律令の整備と密接な関係があるんだけど、その萌芽が天智朝で既に始まっていたって考えられるんだよ。

しかし考えてみれば勝手な話ですよ。自分は対抗勢力を力ずくで蹴散らして来た訳でしょう?

確かに中大兄はまさに世代間継承のまっただ中で大混乱の中を生きてきたワケだよね。何人もの皇位継承候補を蹴散らしてたった1人残ったのが彼だった。
でもそれまでの実力者乱立だった時代ならまだしも、中大兄が天皇になるに至ってただ1人絶大な権力を持つ状況で果たして自分の子孫たちにそんな険しい道を歩ませようと思うかしら?

国家経営を安定化させる為にも指導部が揺らいでたんではお話にもなりませんからねぇ。

そう、律令国家への前段階として見て良いと言えるよね。白村江の戦いを通しても感じただろうけど安定した政権こそが国家が国家としてきちんと機能するって言う。これは天智がその生涯の大半を戦いの中で過ごして来たからこそ切実に感じてたことだと思うの。

しかし大海人の考えはそうでなかった。壬申の乱の前には有名なあのお話がありますよね。

ふむ。晴田くん、ちょっとその時の概要をお願い。

はい。天智が病床に倒れたのは671年9月と言われています。(一説には8月説も) 我が身の余命幾ばくもないと悟った天智は10月に大海人皇子を病床へと招きます。そこである提案を持ちかける訳です。

「自分はもう先が無いからこれからはお前が後のことを仕切ってくれ」。でもこれは次期天皇を大友皇子に継がせたいと願う天智の罠で、ここでこの提案を受け入れたならその場で大海人を殺そうって刺客を忍ばせていたんですよね。

ふむふむ。それで?

でも大海人は承知しなかった。

「次期天皇は大友皇子に継がせてあげて下さい、わたしは出家して吉野へ籠もりましょう」って即座に頭をまるめてしまう訳ですよね。そこまでする大海人を問いつめることはできなくて天智も許してしまったと。

おっ、良く知ってるじゃん。んで、それから?

吉野へ行った大海人を見てちまたでは「虎に羽根をつけて野に放ったようなものだ」って噂になっちゃうと。案の定、天智崩御後に大海人は反乱の旗を揚げて大友軍を破って天武天皇として即位する。こんな流れですよね〜。ちゃんと習ったも〜ん。

村下もそう習ったよ。でも一般に知られているこのお話の概要、まさしく今しもしもちゃんが言った内容だけどそれはよくよく検証してみると若干ニュアンスが違ってくるんだ。

またか・・・。

これについては『日本書紀』に2つの記述があるの。ハイ、晴田くん。

天智天皇紀と天武天皇紀ですね。まず天智天皇紀、これで行きますとちょっと長くなりますが・・・
  「朕の病は重い。後事をそなたに託したい」
  大海人は天皇を再拝し病気を理由に固辞してそれを受けないで
  「お願いです、天皇としての大業は大后である倭姫王にお授け下さい。大友王へは大王への奏上、臣下への命令をおまかせ下さい。それがしは陛下のために出家して修行に打ち込みます」

とその時の様子を描いています。そして天武天皇紀では・・・

  天皇(天智)は大海人に命じて天皇の大業を授けると言った。大海人は固辞して
  「それがしには不幸にも多くの病があります。このような身でどうして国家を保つことができるでしょう。お願いです、陛下、天下は皇后にお授け下さい。それから大友皇子をたてて世継ぎとなされるがよろしかろう。それがしは今日ただいま出家して陛下の為に功徳を積みましょう」
  と答えた。

とありますね。

天武紀は他のお話を見てもわかるんだけど全体的に修飾がかなり多いから天智紀の方がより資料性を見いだせるんだよ。
でね、ここで気がつくことがあるんだけど天武紀では天智は大王位を大海人に譲るって言ってるんだよね。でも天智紀では「後事をそなたに託したい」って言ってるだけなんだよ。

同じことなんじゃないです?後事を託すってそれは次期大王になってくれってことでしょ?

いや、この後事ってのは大海人の即位を意味しない。あくまで天智が想定していたのは大友即位であって、大海人には後見人として大友−大津・草壁ラインへの即位を見届けて欲しいって意向だったと思うんだな。それは大友の太政大臣就任→大王即位と言う天智の構想へ引き続き協力して欲しいってだけなんだろうと。

しかしその天智構想を大海人は断ってます。

大皇弟の地位では満足できず「次は俺の番」って大海人は思ったんだろうね。当然天智も大海人のそういう思惑は察知してたと思うのよ。だから刺客を忍ばせて返答次第では大海人殺害を考えていた。

でも出家しちゃうと。

そう。そしてもうひとつ大事なのが後見役の立場を断った後、間髪入れずに天智没後の構想を提案してるのよ。
これちょっとポイントよ。

え?どういうことです?

大海人は天智崩御後の大王代行に天智の大后である倭姫王の就任を提案してんのよね。
これってほら、いままでの・・・

あ、推古だとか皇極だとかの。

そう、女帝の出現って言うはそれまでの流れを見ると次期後継者問題の一時棚上げなのよ。
大海人は一旦女帝を誕生させることで自身の即位の可能性を残したカタチにしようとしてるの。この提案は大友の即位を否定してないから天智としてもあからさまに反発できなかったんだね。

それってすごいせめぎ合い、精神戦ですね。メチャクチャ緊迫してる場面じゃないですかー。

もはや天智も大海人もここで覚悟を決めたと見ていいよね。特にこの時の天智については一見話が似てるように感じるから秀吉と対比して見られたりするんだけど、秀吉は自分の死後まさか関ヶ原みたいなことになるとは思ってもいなかったと思うんだけど、天智ははっきりと自分の死んだ後の光景が見えていたでしょうね。大海人の思いはわかりすぎるくらいにわかってたでしょうから。

なってたって大海人が提案した道って言うのはまさしく天智自身の通って来た道ですからねぇ。

大海人としては天智崩御後に動き出そうってハラですか。

孝徳即位でも見られたし、中大兄即位へ向けての必要条件でもあった一定の軍事行動を示唆してるよね。壬申の乱がまさしくソレなんだけどさ。

大海人としては「あなたもやってきたことでしょ?」ってのが見えますね。うーん、なかなか奥が深い。

こういう面を取ってみれば秀吉と家康の関係にも似てますよね。

うーん、そう言われたらそんな気もするなぁ。天智個人や秀吉個人の意識以外では似てるカモしれない。

兵農分離を進めて豊臣家による文治政治へ移行しようと考えていた秀吉と「まだ戦国である」と言う認識の家康。「そうは問屋が卸さない」とでも言いたげなんですよね。

天皇直系による安定した皇位継承を考える天智側(大友)と「そうは行かないぞ」の大海人側だね。壬申の乱って言うのはこういう背景があったのは押さえておきたいところなんだな。
ところで、これは後の講義でお話するけどここで「天智直系」と言わずに「天皇直系」と言ったのはちょっとポイントなんで覚えておいてね。これは決して天智の系統だけで皇位を独占しようとしてたワケじゃないんだよ。

んー、ちょっとわかんないですけどまぁいいや。また講義があるんだろうし。

さて、そして遂に同年12月、天智天皇はその大波乱の人生に幕を閉じます。残されたのは近江の大友皇子と吉野の大海人皇子。いよいよ日本古代最大の内乱が起こるんです。

それはまた別の講義で。

         
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