いよいよクーデタ派が蘇我本宗家滅亡へ向けて動き出す!変の関係者と軽皇子との関係とは?
「乙巳の変」は果たして中大兄皇子主体で進んだのか?
従来の改新史観で見る乙巳の変の矛盾点とは?


■ クーデター真の主役は誰か?

いわずもがなの中大兄皇子と藤原鎌足でしょ。

アンタ、前の講義で何を聞いてたのよっ!

いや、村下センセの独り言を・・・

・・・・。 (わたしは一体今まで何をやってきたんだろう?)

一般的にはしもしもさんの仰ったようなことになってますよね。
でも前からのお話ではどうも中大兄皇子の前に古人大兄皇子と軽皇子がいるみたいですね。センセはどうも軽皇子こそクーデターの主役と見てるようですが・・・。

ウム!さすがはわたしの助手だ(^^)よろしいよろしい。

まぁわたしは村下ゼミを履修してるワケでもないしー。

へぇんだ。履修してようがいまいが関係ないもーん。あなたがココにいるって言うその事実だけでもうあなたはわたしの下僕教え子ってことなんだもーん。

しもしもさんも人生変わらなきゃいいんですけどね。

・・・だんだんわたしの権威が無くなっていってるような。
とりあえず人間関係を洗ってみましょうか。まずはクーデター後の新政権の陣容を見てみたいんだけども。
ハイ、晴田くん。

左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、内臣として中臣鎌足、って感じでしょうか。
従来、阿倍内麻呂は守旧派の長老をTOPに据えて乙巳の変後で混乱した人臣の収攬を狙ったと見られていますし、蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足は乙巳の変の功労でその地位に就いたってことになってますよね。

中立の立場の内麻呂を左大臣にすることで政局の安定を狙うって感じですよね。

『藤氏家伝』にも阿倍内麻呂の記述が無いからクーデター派とは無縁だったって見方もあるんだよねぇ。
でもねぇここで内麻呂と軽皇子とのつながりを見てみるとグッと違った面が出てくるのよ。

阿倍内麻呂の娘は軽皇子のミメとなって有間皇子を生んでいます。この婚姻はクーデター以前からあったモノですよね。
それと軽皇子の本拠地とも言える場所のスグ近くに本居を構えてるんです。

血縁関係的にもバカにならない繋がりがあるし蘇我氏のところでちょっとお話したけど当時は地縁的な繋がりって言うのがすごく重要なのよ。
クーデターの主役を軽皇子と見てる村下としてはこれらの関係は無視できないなー。
少なくとも誰かと誰かが蹴鞠の席でどうのこうのなんてバカバカしいお話よか状況証拠としてよっぽど信頼したいね。

その他の人はどうなんです?

蘇我倉山田石川麻呂、彼は入鹿殺害の実行犯と見られてますよね。その功績を以て右大臣になったって見方をされてるようです。
それと蘇我本宗家が滅んだ後は蘇我倉山田家が蘇我氏の本宗家へと昇格したようですから、名門の蘇我家を代表するって意味合いも伺えますよね。

ちょっとこのあたりが弱いんだよね。

いやいや、筋通ってるでしょ。これはこの通りと見て良いんじゃないです?

『日本書紀』にしても『藤氏家伝』にしても入鹿殺害の時の石川麻呂の記述って臆病者風味で書かれてて最終的には中大兄皇子が斬りかかることで入鹿殺害は成功したんだって書き方になってんのよね。
このクーデター派にとって一番重要な場面でそんな失態を犯してしまった石川麻呂に責任追及が無いどころか右大臣だからねぇ。

ココで失敗したらクーデター派が逆に入鹿側の反撃をくらって立場がとても危なくなりますもんね。

全身ふるえわななき大汗を流してなかなか斬りかからなかったって話でしたっけ?

それがね、『家伝』の別のところには・・・

「剛毅果断にして威望亦た高し」みたいなことも書いてあるんですよね。
クーデターの現場と全然ちゃうやん!みたいなツッコミを入れたくなるって感じですよね。

本宗家へと昇格した格式みたいなモンはどうなんです?

これにしても結果的に「本宗家になりました→それでは右大臣に」って思考を捨てて、倉山田家を本宗家にするタメに蝦夷−入鹿の本宗家滅亡へ動いたって言うもっともっと能動的な理由をみたいところなんだよ。
たなぼたじゃなくってそうしたいがタメに石川麻呂は軽皇子側へついたのではないか?と。

クーデター側としては一部の限られた人間しかいない場である朝鮮関係の貢献関係の場をクーデター実行の場と定めていたとすれば、こういうことを仕切る役目を担っていた倉山田家の人間を引き入れるのは絶対条件であったでしょうね。

そういう意味から言えば石川麻呂が計画の最終段階で仲間に加わったとする今までの通説は信じられない。
「天皇の生前譲位」と言う前代未聞のイベントを実行へ移すにあたってはかなり周到な計画が練られていたと見ていいと思うんだけど、書紀や家伝の記述には無計画ってゆーか呑気ってゆーか、なんかかなり無理して辻褄あわせましたって気配が濃厚でねぇ・・・。

血縁的にも軽皇子へミメを差し出してますし、地縁的にも両者共に河内・和泉を背景としてかなり近かったことが伺われます。クーデター以前から親交が深かったことは容易に想像できますよね。

軽皇子と結ぶことで古人大兄皇子−蘇我入鹿ラインと対抗・排除しようとしたって考えて良いんじゃないかな。

中臣鎌足はどうです?軽皇子は鎌足をして「共に大事を謀るにあらず」っていわしめた人でしょ?

乙巳の変は鎌足の隠遁から始まったって感じで記述されてるよね。
ハイ、晴田くん。

舒明天皇はその即位の前に各豪族の後継者を確定させる作業に入っていた模様です。その時に鎌足は自分の宗家の職と継ぐことを拒否して摂津三嶋へと隠遁するワケですね。
鎌足はコレを以て歴史の舞台へ登場することになります。

引退が初登場なんて変わってますねぇ。ま、それだけ重要なお話なんだろーけど。

なかなかスルドイじゃん。
鎌足が職を拒否した理由は表向きは病気なんだけどね。
ハイ、晴田くん続き。

鎌足が辞退した職は「神祇伯」です。『中臣延喜本系帳』によれば中臣連は代々「前事奏官兼祭官」としていますね。中臣家の族長は「前事奏官」として大王と臣下との奏宣の役を帯びつつ「祭官」として祭事関係の職務を帯びていたことが想像されます。

かなりの権威を持つ職を辞退してまで隠遁してしまったんですね。それにしては大化改新では一気に政治の表舞台へ出てきちゃうんですねぇ。

当時鎌足にはまだ年長の兄がいたにも関わらず鎌足が中臣家の後継者に任命されようとした。母親の出自とかも関係してるんでしょうけど若年の鎌足でも兄を飛び越えて世襲することの危険さは十分わかってたんじゃないでしょうか。

するとこの隠遁って言うのはじっと機会を伺ってたと。

隠遁って言うよりも来るべき時に向けての足場固めって言われてますよね。

ふむ、でもむしろ鎌足が隠遁したとされる「摂津三嶋」は中臣一族を統括するには一番良いポイントなんだよね。村下としては中臣氏期待の御曹司の英才教育って意味合いも見たいところなんだけどな。
まぁそれはそれとして鎌足が移住した摂津三嶋周辺、このあたり一帯の中臣一族はまさに軽皇子の宮をとりかこむように位置してんのよ。江戸時代じゃないんだからこういう地縁的な関係って一代限りで形成できるようなモンじゃないんだよね。すると軽皇子と中臣氏ってそれこそ父祖の時代からの重要な繋がりがあって彼らによってより一層深められたんじゃないか?って想像できちゃう。とても鎌足の思惑ひとつで接近したり解消されたりするような性質のモノじゃなかったと思えるね。

『日本書紀』と『藤氏家伝』の記述が中大兄皇子と鎌足との関係よりも軽皇子と鎌足との関係の方にスペースを割いて記述してある点も見逃せないと思います。

結果的に中大兄皇子と共に難波宮に孝徳天皇(軽皇子)を見捨てた事実はあるワケで、できれば旧主とも言える軽皇子との関係はできることならなるべく触れたくなかったにもかかわらずそれだけの記述が必要だった意味は大きいんじゃない?

「共に大事を謀るにあらず」ってセリフはどうするんです?

それについてはクーデター成功後に軽皇子が即位するようになった時の鎌足のセリフを見て欲しいね。

「実に大臣の本意なり」と書かれてますね。大臣って言うのは鎌足のことと見て良いでしょう。

器量不足って見限った人が即位することが鎌足の本願だったのか?ってコレはツッコミ入れないとダメでしょ。
強引に書き換えた歴史の矛盾が現れてるよね。鎌足や中大兄皇子を顕彰しようって人の苦労が伺えるよね。

クーデター後も新政権で鎌足は孝徳天皇の忠実な臣下として書かれてるところを見てもクーデターの時だけ人が変わったように書かれてる鎌足像はかなりゆがんでると言えるでしょうね。

まぁその他の新人事、例えば国博士とか内麻呂や石川麻呂の後継者、将軍なんかを見てもみんな軽皇子との関係がかなり深い。特に地理的関係、河内とか和泉といった地方になにかしら関わってる人間ばかりなんだよ。
逆に中大兄皇子との関係はさして目立ったモノは見られない。鎌足とのワケのわからない逸話に気をとられてしまいがちなんだけど、状況的に中大兄皇子って「軽皇子の甥」って理由以外にはクーデター側に参加した面々との繋がりが無いんだよね。

後年、孝徳天皇(軽皇子)が中大兄皇子によって都に置き去りにされたってあたりから逆に判断してしまってる面はありますよね。

確かに中大兄皇子は次第に実力をつけてきたんだろうけど乙巳の変当時はそれほどではなくて、変自体は一貫して軽皇子主導で進んだって見たいのよ、村下としては。
中大兄皇子はまだまだ「将来の天皇候補」の域からは出てなかったんじゃないか?もしくは軍事的才能を見込まれて現場の司令官的役目を負わされていたのではないか?ってね。

中大兄皇子って一体・・・

まぁ言ってしまえば中大兄皇子寄りなお話ってーのは『日本書紀』と『藤氏家伝』の「かなり無理のある記述」しかない。天智やそれに続く天武、そして天武朝への食い込みによって勢力拡大を計った藤原氏、このあたりの関係を十分考慮した読みが必要なの。

細部を見ていくって言うか状況を検証していくと筋が通ってるようで通ってないって言う・・・なんかわたしも似たようなモノに参加してるような気がするんですけど(笑)

ほっとけ!ってゆーかなんでいつもこんなオチになるのよっ!

         
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