隋・唐の中国統一による急速な中央集権化は周辺諸国にとっても同様の変化を喫緊の課題としてつきつけるものであった。
朝鮮半島統一へ向けた『白村江の戦い』は極東全体に新秩序建設の波を呼び込む。
古代最大の海戦が日本に与えたモノとは?

■ 国体転換! 〜白村江で戦ったのは?

6世紀末、隋によって統一された中国は周辺諸国へ巨大な影響力を及ぼすようになります。

今まで内戦のために使っていた労力・兵力を周辺諸国対策に使えるようになるんだから当然よね。

自ずと周辺諸国も中国と同様に中央集権的な統一国家形成に動かざるを得なくなります。
日本で考えてみますと「聖徳太子によって立案され推し進められた中央集権化に向けた政策は、白村江での敗北という国家存亡の事態を迎えるに至って中大兄皇子(天智天皇)とその後を継いだ天武天皇によってより加速されることになる」
、わからないお話じゃないですね。

白村江での大敗北なくして天智以降の急速な中央集権化の説明ができないのは間違いないところだけど、ただそこに至るまでの説明にはいろんな疑問点が浮かび上がってくるよね。

浮かび上がるかなぁ?

そもそも「白村江の戦い」ってどことどこが戦ったか知ってるかな?

百済・日本連合軍vs唐・新羅連合軍でしょ。何を今更。

じゃあその日本って?

意味がわからん。日本は日本に決まってるじゃないですか。

とりあえず「日本」呼称については後でやるけど、アナタが言いたいのはいわゆる大和朝廷といわれる畿内の政権のことだよね。

それ以外に何があるっていうのやら。

前の講義で「日出ずる処の天子」のお話したでしょ?覚えてるかな。

阿蘇山のカルデラがどーのこーの・・・、鹿児島のシラス台地があーだこーだ…

い、いつの間にここは「村下地学ゼミナール」に!?

「阿蘇山」しか覚えてないじゃないのよっ!もう一回やり直し

北九州に大和朝廷とは別の勢力があったというお話でしたよね。

『隋書』での「日出ずる処の天子」のくだりと同じく、『旧唐書』を見てもこの時期の唐と倭の関係っていまいちしっくりいってないのがわかるんだけど、なぜか『日本書紀』での両者の関係ってすこぶる良好なのよ。

『旧唐書』によれば、「631年に倭国は遣使しその答礼として高表仁を遣わした。しかし高表仁は王子と礼を争い朝命も述べずに帰って来た」と記されています。

朝命って唐の皇帝からの連絡事項みたいな意味なんだけど、それを伝えず帰るってよほどのことだと思わない?

「もういい!」みたいな感じしますね。

これに対して『日本書紀』では632年に唐の高表仁が来た折、舒明天皇は「天子の命ずる所の使い、天皇の朝(みかど)に到ると聞き、これを迎えしむ」と話しています。

これね、同じ出来事だと思う?いや、仮にこの2つが別々のエピソードを指してるとしてもそこに流れる空気が全然違うって感じない?

隋の煬帝を怒らせたという国書と日本書紀で書かれた国書が全く別物だったという前講義の説と同じように、旧唐書と日本書紀での舞台そのものが別であるということですか?

これはこの後でする白村江の戦いや「日本」の国号とも関わってくるんだけど、『旧唐書』に書かれている「倭」と畿内政権いわゆる「大和朝廷」は別の勢力だって説を村下は採りたい。

唐と対等の立場に立とうとした「倭」に対して、唐に従順な「大和朝廷」って感じですかね。

そうね。それを踏まえた上でさっきの日本書紀の記述をもう一回読み直してもらいたいんだけど、これね「唐の天子からの使いが、天皇の朝廷に来たと聞いたのでお迎えに来ました」っていうことなのね。なんかさ、パシリ的な印象ない?

舒明の立ち位置って天皇とは微妙に違ってる感がありますね…

だから「天皇」位についても北九州のいわゆる「倭」の長が天皇を名乗っていて、畿内の勢力はその支配下にあったというスタンスで見てみたい訳よ。

ちょっと待って。
天皇が「倭」の長だったとすれば、大和朝廷の長が天皇を名乗っちゃだめじゃない?
『日本書紀』に記述されてる隋へ当てた国書には「西の天皇、東の皇帝に申す」でしょ。大和朝廷が天皇を名乗ってるじゃないですか。

国内的には天皇だった倭の長はあくまで隋と対等な立場に立とうとすることで隋に対しては「天子」を使った。それが煬帝を怒らせた「日出ずる処の天子」よね。一方大和朝廷は倭が使わなかったことでこれ幸いと対外的に「天皇」を名乗ることで倭からは独立した立場で隋と国交を開こうとした背景が見えてくるのよ。
それは「日本」という国号に対する隋の考え方も同じなのね。
 倭にとって「日本」は「日出る処の天子」とセットだった。一方中国にとって「天子」ってのは自分のところの皇帝にしか使えない言葉なのね。だから倭が名乗る「日本」を認めると言うことは倭王を「天子」だと認めてることに他ならない。そんなものを東夷ごときに認めるなんてありえないのよ。

「うるさい、お前なんか”倭”だ!」みたいな?(笑)

しかし白村江の戦いで倭は滅びます。

倭を支援をしないことで間接的に唐側に付き、自らを天子と名乗らず天皇と名乗ることで天智にようやく「日本」が許されたんじゃないかって考えたいのよ。

時に670年、この時以降朝鮮の記録から「倭」表記が消えて「日本」が出てくるようになります。そして中国でも703年から「日本」表記に変更されています。

大宝律令完成後初の遣唐使によって大和朝廷による国内整備完成の報告を受けたことで、唐は大和朝廷を正式な日本の支配者として冊封体制へ組み入れたってことよね。

んー、また突拍子もないことを言い出しましたねぇ

教科書的なお話を聞きたければ誰かに教科書を読んでもらいなさい。そうじゃないお話をするからこその村下ゼミなのヨン。
 ということで当時の朝鮮半島の状況を振り返りつつ外側から日本を見てみよっか。

朝鮮半島北部から満州に至る土地には高句麗が存在していました。この高句麗に負けたことで秦は崩壊したという故事もあるくらいの国で、なんと隋も高句麗との戦いをきっかけにして滅んでしまいます。

大したもんだね。

まぁ高句麗遠征は隋崩壊のひとつのきっかけに過ぎないし、この高句麗が中国の一部だったか半島の国の前身かってあたりで両国?三国?の見解も異なってるみたいなんだけど、村下に言わせればこのあたりはどうでも良い。
ってことで次。

隋の後を受けて中国を統一した唐も高句麗へ手を伸ばします。その手法は新羅と共に百済を滅ぼして、高句麗を両方から挟み撃ちしようというやり方でした。

「高句麗を滅ぼす」これが百済侵攻の直接の理由だったと思ってくれて良いよ。

そして660年、百済は唐・新羅連合軍の攻撃を受けて滅亡します。捕らえられた百済王とその王族、家臣88人と百姓12800人は唐へ連行されます。

当時はしっかり遣唐使も存在してる訳で、百済の王族や家臣が捕虜として皇帝の前に連れてこられるのを目の当たりにした彼らの気持ちはいかばかりだったかと思っちゃうよね。
もちろんここの『遣唐使』には北九州の倭から来た遣唐使と畿内の大和朝廷からきた遣唐使がいるって思ってね。
 そして彼らからその報告を受けた2つの王朝は全く逆のことを考える。
 倭は徹底抗戦、百済復興、あわよくば加羅諸国の占領。
それに対して大和朝廷は恭順。むしろ唐と既に密約を結んでいた可能性が高い。
唐vs倭となったら大和朝廷は手出しをしない。その代わり唐が倭を滅ぼした暁には大和朝廷を日本で唯一の王朝として認めるって感じかな。

こうして663年、朝鮮半島南西の白村江で唐・新羅連合軍と倭軍との戦いが開始されます。
2日間に渡る激闘は倭軍のほぼ全滅というカタチで終結します。この海戦を「白村江の戦い」と呼んでいます。

村下的にはここで負けたのが北九州の倭王朝であって、畿内の大和朝廷ではないという見方をする。

生意気な「倭」との関係がうまくいかない唐は「倭」を叩き潰してその後釜として大和朝廷を持ってこようとした訳ですね。

わからない話じゃないけどにわかには信じられないなぁ。

唐との密約があったのかどうかはわかりませんが、中大兄皇子が九州から動いた形跡はありませんね。

この時、天皇の九州行幸っていう日本史上でも極めて異例の事態が起こってること、これが国家未曾有の危機によるものだったとするならば最高指揮官中大兄皇子が前線の朝鮮半島に赴かず後方の九州に留まったままだった。この2つは不自然極まりないんだよね。更に難波から筑紫まで3ヶ月もかけて移動しているというのも非常にあやしい。

戦後処理にも疑問があるようです。

対唐・新羅戦に関して言えば、立場的に同じかむしろ戦いを仕掛けられた百済よりわざわざ戦いを挑んできた倭の方が弱いとも言える。でも百済は王族や大臣・将軍を唐へ連行されているのに対して、日本に対してはそのようなことが一切無かった。いや無かったことになっている。
当時日本の指導者だった(はずの)中大兄皇子は何の責任も問われていないし、それどころかその後に唐からやってきた使節とまるで同盟国であるかのような交流を続けている。

旧百済王族や貴族を唐や新羅ではなく日本へ送っているというのも謎ですよね。

一事が万事、唐の日本に対する態度は戦勝国が敗戦国に対する振る舞いじゃなくって同盟国としてのそれなのよ。

ま、これは学会じゃ全然支持されてない話なんですけどね。

アヤシゲ説な訳ね(笑)

まぁ歴史に限らずそういう場を仕切ってるおえらいさん方って自分が何十年も信じてきた説がひっくり返ることをすごく畏れてると思うんだよね。
何十年間も一生懸命(かどうか知らないけど)研究してきたことを無にしたくないから必死になって守ろう、みたいなさ。ある意味自分の人生が否定されかねない訳だから必死になるのもわかるんだけどねー
わたしが何を言いたいかは察してね(笑)

いよいよ危なくなって参りました。

いや、ここを見てくれてる人ってウチでやってるお話はひとつの説だってのをわかってくれてるから大丈夫だと思うよ。
てか前はそれなりのアクセスがあったんだけど、ブログ全盛ですっかりお客さんもいなくなっちゃってさー

お客さんが来なくなったのはブログがどうのこうのじゃなくて、更新が全くされな…(略)

 ということで最後に旧唐書日本伝にある一文を紹介して終わりにしよっか。

『日本國者倭國之別種也』

う〜ん…

         
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