三河の土豪出身であった家康は、三河守就任を契機として徳川へと改名する。
しかしその姓はあくまでも「藤原氏」であった。
家康が「藤原氏」から「源氏」へと改姓したのはいつか?
そしてそれは将来の征夷大将軍就任を見据えたものであったのか?


■ 清和源氏新田氏系得川氏徳川家康

漢文かなんかですか?↑コレ(笑)

めんどうなのよね、名前ってさ。
それはそれとして松平氏と徳川氏、これって江戸時代は親藩って言って将軍の親戚筋って言われてたのはご存じかな。

いくらぷーでもそれくらいは知ってますよー。
関ヶ原以前から徳川方についていた大名が譜代。その後で家来になったのが外様でしょ。

幕藩体制っていうのは外様を京都や江戸から離れた地に置いてその間に親藩や譜代を配置するっていうのが基本なんですよね。

うん。で、この松平と徳川ってーのは何がどう違うのかはご存じかな?

徳川の名前が許されていたのはいわゆる「御三家」の紀伊藩、尾張藩、水戸藩です。当然江戸の将軍家もそうですけども。

アンタが答えてどーすんのよ!アンタは助手でしょーに。

そんなことぐらい知ってましたよ。

(・_・)ジー

(・_・)ジー

うううっ

元々家康が今川家に人質として出されていた頃は松平元康って名前でね、この松平って元は三河の土豪なんだよね。

でもこの松平家には伝承があって松平家初代松平親氏っていう人は実は清和源氏の流れを汲む新田氏の一族で下野国新田庄世良田郷得川にいた得川四郎義季の8代目の子孫ってされてるんですよ。その新田系得川氏ってのを根拠として家康はそれまで松平と名乗っていたのを徳川と改名して「清和源氏系新田氏」ってことで征夷大将軍になったって言われていますよね。

これが徳川将軍家の正しい歴史観だな。まぁこれをそのまま信じるて人なんていやしないって思うんだけどさ。

それにしても新田氏だとか源氏だとかややこしいですねぇ。

平安の講義でしてるお話なんだけど、ここでちょっと家康にからめて補足説明しましょうか。
ホレ、晴田くん。

家康の「得川氏」への改名って言うのは2層で見たいところです。すなわち「松平」から「得川(徳川)」って言う改名って表層面と「新田系得川氏」を名乗ることでの源氏と言う姓になるって言う改姓の深層面です。

そこがややこしいんですよ。

源・平・藤原・橘・菅原あたりを「姓」って言いまして、これは同じ始祖から発展した血縁的な氏族全体に対する呼称なんですよ。ちなみにこれは基本的に父系の氏族であることを原則としてます。母方が藤原氏で父方が源氏であるならその子供は源氏になるって意味です。

ふむふむ

それに対して足利・新田・武田・今川・吉良・細川それから徳川(得川)というのはいわゆる「名字」でありまして、「姓」が系図上どんどん枝分かれしていきますよね、それを各系統ごとにひとつのまとまりをあらわした親族的な集まりの呼び方なんですよ。

ひとつのまとまり?

基準は土地ですね。この名字って言うのがのちの「家」の概念に繋がっていくって感じです。
ちなみに今挙げた名字の姓は全部源氏です。このほか畠山とか斯波とかも源氏ですね。実は室町幕府の要職ってほとんどが源氏だったんですよ。

日本人は基本的にこの「姓」と「名字」の二つを持つんだけどこのあたりは中国や韓国社会とちょっと違うって思わせるよね。

松平から得川になることで名字も変わったし姓も変わったってことなんですね。

まぁ改名より改姓に力点があるんだろうとは思うんだけども。

新田系得川氏であることで源氏に繋がり、源氏であることをもって征夷大将軍を目指したって感じでしょうか。

最近ではガッコでもそういう教え方になってるのかな?まぁどうでもいいや。あのね、でもこの得川(徳川)への改姓って一番最初は源氏じゃないのよ。

え?得川氏は源氏ってさっき…

最終的に得川氏は源氏ってことになったさ。でも一番最初は藤原氏だったのよね。

なんだそりゃ、そんないい加減なのでいいんですか?

一応朝廷も先例を重んじるところだからね。家康の改姓って先例が無いってことで正親町天皇から許可がもらえずにいたのね。そこで当時神祇官だった吉田兼右が万里小路家でみつけてきた系図から先例を探し出したのよ。それを利用して徳川は本来は源氏なんだけどそれが2つの流れに別れてその一方が藤原氏になったっていう理論から「とりあえず」藤原氏として改姓と叙爵の勅許をもらったの。

源氏じゃなくていいんですか?源氏になることが目的じゃないんですか?家康が征夷大将軍になったのは家康=得川氏=新田氏=清和源氏って論理でしょ?

そもそもこの改名の時の家康の目的っていうのは「征夷大将軍」ではなくって「従五位下三河守」って言う朝廷の官位を受けることでね、その為に松平って言ういち地方土豪では都合が悪いんで…ってあたりになるから源氏だろうが藤原氏だろうが関係ないのよ。
このときは足利将軍も健在だったし家康もまわりを有力な大名に囲まれてる小さな大名でしかないからねぇ。とてもじゃないけど将軍まで意識できたのかって疑問もあるしね。

隣国には武田とか今川って言う源氏の名門もあるし自国領土内にも吉良って言う源氏の名族が居るだけにそれらに対しての牽制って意味もあるだろうし他の戦国大名がそうしたように名目上であれ権威が欲しかったんでしょうね。それには在地土豪出身では限界がある。

血縁なんてごちゃごちゃに入り交じるものだから藤原氏か源氏かどっちでもいい、みたいな感じなんですかねぇ。

もう一つ、家康の改名と叙爵を天皇へ執奏してるのが藤原氏の氏長者で関白の近衛前久なんだよね、さっきお話した吉田兼右って近衛前久の指示で動いてただけなの。で、藤原氏の前久にやってもらってるんだからここは藤原氏でいいか、みたいなのもあったのかもしれないね。
源氏として官位を求めるとなれば足利将軍家の執奏が要るだろうけど家康はこの時点で将軍家とのツテを持たないし、たとえあったとしても足利氏とは仲の悪い新田氏の末流ってことじゃいい結果にはなりそうにないからねぇ。

ではどこでこの藤原氏が源氏に変わったんです?

1603(慶長8)年が家康の将軍宣下です。一般的にはこの将軍宣下直前に足利系吉良氏から系図を譲り受けて清和源氏に連なる系図を創作したって言われてますよね。

「一般的に」言われてるんですかぁ?

あまり一般的じゃないよねぇ。でも教科書的なものだとこのあたりまではつっこんで書いてるんじゃなかったっけ?覚えてないんだけども。

そりゃウン年前だと覚えてもないでしょうねぇ(ぼそ)

なぁにぃ!!

どうどう。ウン十年て言われなかっただけでも良かったじゃないですか。

どうどうってわたしゃー、馬か?
とにかく、家康が藤原氏から源氏になったのは慶長年間なんかよりずっと前なのよね。天下がいよいよ見えてきたあたりにはもう動いていたみたいよ。

天下が見えてきたって秀吉が死ぬあたり?

もっと前さ。はっきりわかるのが豊臣秀吉の主催した聚楽第での後陽成天皇行幸あたりね。

1588(天正16)年ですね。

ここで秀吉は各大名に関白の自分に対する恭順を示すようにって三箇条誓詞を提出させてるんだけども。この時家康ははっきりと「大納言源家康」って署名してるんだ。これってこのとき既に家康が藤原氏から源氏になっていたっていう証拠だよね。

この年はもうひとつ大きなポイントがありそーです。

おおっ、さすがはわたしの助手。やっと右腕の爪くらいにはなれたんじゃなーい?(嬉)

まだ爪ですか…。
実はこの年の正月にそれまで中国の毛利氏のところにいた室町幕府第15代将軍足利義昭が上洛、出家して昌山と号してるんですよね。

そう!これで足利将軍家は名実ともに終わりを迎えたのね。
源氏の氏長者である足利氏が終わったと言うことは家康にとっていよいよ次代の源氏氏長者・征夷大将軍が現実味を帯びてきたって感じあるよね。
松平が藤原氏となるのはあくまでも廷臣になる一方法であっただけだったけどこの藤原氏から源氏への改姓は明らかに征夷大将軍を意識したものであるって思っていいと思うんだな。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いからわずか3年後の将軍宣下までの間に清和源氏として都合のいいように系図を整えたってわけでは無いんですね。

こうやって見ていくと結構違った面が見えるでしょ。

って言うか「やっぱり家康」って印象だな〜。

やっぱどこまで行っても家康は家康なのかねぇ…

    
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