武家支配の根元であった征夷大将軍職。
中世において常にこの官職と比較対比され対抗馬と目されていた「鎮守府将軍」とは?


■ 征夷大将軍前史 〜鎮守府将軍 

東北の多賀城を居として主に東北経営にあたるのが鎮守府将軍です。

地方政治は国府の国司が行うのではないですか?東北なら陸奥守が東北経営を仕切るんでしょ?

陸奥国司が一般行政府、鎮守府将軍府が軍政府って感じかな。ちょっと変わってるんだよ東北ってのは。

つまり蝦夷にさらされて常に戦争状態であるっていうのが常態という感じですね。
異常な状態が常態だから一般の国司陸奥守がいるし将軍である鎮守府将軍がいるっていう。

う〜む、複雑ですねぇ。
で、将軍と言えば征夷大将軍ですが、鎮守府将軍とはどう違うですか?

名前が違うでしょーに。

またですか。ワンパはどうかと思うんですけど。。。

一度出したらそれで押し切るのも大事なのぢゃ。
征夷大将軍は文字通り東国の蝦夷を討つ軍を統括する将軍よね、それに対して鎮守府将軍は最初から東北の経営を任されてたのが違いかな? 領国ではないところへ攻め込むのと領国経営と。

鎌倉は領国では無いの?

それは後々説明するつもりよ。同じ官職でも時代によってその意味が微妙に変わってることは気にしておくといいかもしれないね。
頼朝以前すなわち頼義とか義家あたりはもう関東に地盤を持っていたからその上にある東北も欲しかった。だから鎮守府将軍を望んだのね。支配者になるべく鎮守府将軍を望んだと。ある意味征夷大将軍的意味での鎮守府将軍要請だな。

ただ実際は鎮守府将軍には前九年の役・後三年の役によって頭角を現した清原氏や藤原家衡が就任することとなります。
藤原家衡、奥州藤原氏の栄華はここから始まるんです。

この藤原氏ってあの藤原氏と関係あるとか?

摂関家でなく藤原秀郷の流れを名乗ってるようですね。鎮守府将軍への拘りもそのあたりにあったみたいです。

奥州藤原氏が頼朝によって滅ぼされた時捕虜として捕らえられた家人に頼朝の家来が、「奥州の勢力は古来から源氏の家人だ」みたいなことを話したんだよね、するとその捕虜は「奥州藤原氏は藤原秀郷を祖とする鎮守府将軍の家柄だ、兵衛佐(ひょうえのすけ;頼朝のコト)ごときの家来なんかじゃない!」ってタンカ切ったらしいね。

武士の感覚では兵衛佐より鎮守府将軍こそが武門の棟梁って考えは当然あったでしょうし、奥州勢の意識と関東勢の意識はかなり違ってたみたいです。
奥州勢は「奥州は独立したもの」という考えなのに対して関東勢には「奥州は源氏の家来」という感覚。鎮守府将軍の意地みたいなものを感じさせますよね。

その意地を探ってくと結構面白いお話もあるんだよね。それはまた別の講義に譲るけど。

南北朝期には従二位陸奥大介鎮守府将軍にある北畠顕家が「鎮守府将軍が三位以上であるときは特に大の字を冠して"鎮守大将軍"にしてほしい」という要請を出してこれが認められています。

これは多分に征夷大将軍を意識したものなんでしょうねー。

ちなみに陸奥国は義良親王を国司とする親王任国でしたので国司は陸奥守でなく陸奥太守となり、その下の陸奥介は陸奥大介となります。
親王はたとえ国司になっても現地へ赴任することはまずありませんので、陸奥大介は実際には陸奥守と同格と規定されていますです。

征夷大将軍より格下に見られていた鎮守府将軍の一段上の職を設けて征夷大将軍と同格の物と位置づけることで尊氏に対抗しようって考えのようね。これは顕家のおとーさんの北畠親房発案だったかな? 別段何がどう変わったわけでもないんだけど、顕家が南朝の希望の星だったって言ういい例かもしれないね。

実績もありますからね。

実際にもこの時期の鎮守大将軍府は奥州小幕府的な体制を整えていたようです。

征夷大将軍が復活するにあたって頼朝の時も尊氏の時も鎮守府将軍が大きな対抗勢力と考えられたのは、あくまでも臨時であるはずの征夷大将軍を、既に「常置化している形態」で存在していたのが鎮守府将軍だったからと言えるでしょうね。

頼朝の時の奥州藤原氏、尊氏の時の北畠顕家、摩擦が出るのも当然なんですね〜。

あくまで地方軍政官的な認識にしかとどまれなかったのが征夷大将軍との隔たりをもたらすわけだけれど、成立の段階でそういう運命だったのかもしれないし、これは後で説明するけど征夷大将軍の位置づけも時代と共に変革していったわけだし、ひょっとしたら鎮守府将軍の姿こそ正しいありかたなのかもしれないやね。

    
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