1192年、後白河法皇崩御によって遂に源頼朝に征夷大将軍の宣下が行われた。
一般には幕府開設の基本と目される征夷大将軍就任であるが果たして鎌倉幕府成立は同年と言えるのか?
そして「幕府」とは何か?

■ 「鎌倉幕府」成立時期

1192年でしょ?

イイクニつくろうって?これは頼朝が征夷大将軍に任官された年。
一般的な見解としてはこれが通ってるよね。
でもちょっと怪しいんだなー。コレガ。

幕府なんだから征夷大将軍になった時で全然おかしくないじゃないですか。

そもそも「幕府」と言うのは中国では出征中の将軍の柳営を指して言ってたんだけど・・・

『吾妻鏡』にも「将軍に補せしめ給うの後、今日政所始あり」って記述がありますね。

だからそれでいいんでしょ?

あのね、ここで言う「将軍」は日本の律令下では「近衛大将」に当たるの。だから正式に「幕府」と呼べるモノができたのは頼朝が右近衛大将に任官された1190年とも言えるのよ。
それから『吾妻鏡』は鎌倉中期に書かれたものでその記述を全て信じるってワケにはいかにないな。『吾妻鏡』が編纂された時には幕府=将軍という一般認識があったかもしれないけど、この鎌倉創生期に幕府=将軍って言う図式はまだ成り立っていないって思うのよね。

右近衛大将はほんの10日程度で辞官してしまうんですが、この任官は名目上かなり大きかったと言う感じです。

近衛大将になったことを受けて公文所を政所と改めて、頼朝の命令はすべてここから政所下文というカタチを採るのね。
頼朝下の組織がいわゆる政庁として公的なものになったのがここと言えるの。

え゛っ!?

実質的な幕府機能が確立されたのは侍所ができた1180年と言えるからこの年をもって幕府成立とも言えますよね。

え゛っ?え゛っ?

あと朝廷より東国支配の権利を認められた1183年の「寿永二年の宣旨」、これをもって成立とする向きもある。

???

さらに義経追討を名目として全国に守護・地頭の設置を認められ日本国総追撫使・総地頭に任ぜられた1185年を成立の年と見る説もありますよね。

さ、さ、さ、さぁらに!!

まだぁ?

公文所・問注所の設置された1189年に後の鎌倉政庁の基本が揃ったってことでこの年を持って鎌倉開府と言う人もいる。

総追撫使・総地頭就任、これは軍事政権的意味合いから言えばかなり重要な出来事です。

鎌倉幕府の基本って守護と地頭の設置を前提としてるから、この任官が軍事的にも経済的にもかなりの権力であるのはわかる。
って言うか殆ど征夷大将軍と変わらないような気もしますけど、一体全体どれをもって鎌倉幕府成立って言えばいいかわかんないですね。

「幕府」の定義の問題よね。何をもって「幕府」というのか。
足利尊氏や徳川家康は征夷大将軍就任をもって幕府開設と言っていいと思うんだけど頼朝に対して果たしてそれが言えるかどうかってのが疑問なワケ。

基本的に「幕府」とは近衛府将官の幕舎のこと。
頼朝の関東経営は元々征夷大将軍を根拠としてなされたものでは無く、就任は関東支配や武門の棟梁的立場を補完するものであったと言うこと。
この2点は押さえておきたいところですよね。

わかんなくなってきました。

ここが後の足利・徳川と決定的に違うところなんだべさ。

なして訛るダスか?

頼朝の時代に征夷大将軍になることがそのまま主権の移行を意味していなかったということね。
それまでの関東における鎌倉殿としての圧倒的支持、日本国総追撫使・総地頭として、右近衛大将として、段階的に得てきたもの、それを補完する意味での征夷大将軍就任、時代の主役が貴族から武士へ移って行く過程の中での「武家の棟梁」としての地位確立。
いろんな意味で全てを手にすることによって鎌倉幕府は成立したんだと。

ややこしいですねぇ。

えーっとね、いわゆる鎌倉殿っていうのは頼朝と御家人の「御恩と奉公」という私的な主従関係であってこれは実質的なものでしかない。
客観的に公的に認められたものじゃないから、これを公的に補う意味で全国の守護や地頭のトップと認められた日本国総追撫使になった。まずこれ、おわかり?

わかります。でもそれは武士の理論ですよね?

その「武士の理論」に留まらないために右近衛大将になった。
これは律令下の最高武官形式だから貴族の理論にも当てはまってくるでしょ。

でもやめちゃうじゃないですか右近衛大将。

基本的に貴族のものである律令の官職に就いている限りは武家の独立性が保たれない、だからこそ「一度就任したという事実」が欲しかったの。
法的な貴族的な権威を右近衛大将に求めて、その上で朝廷からの独立をするために「前」と言う形態を選んだと。これって辞めたからと言って全てを失う訳じゃないという朝廷の慣習を巧く利用してるのね。

征夷大将軍は何処へ行ったんです?

最終的に何故征夷大将軍を選んだか?
これこそ鎌倉殿の法外性、総追撫使の不足、近衛大将の朝廷への同化の危険性を「補いかつ払拭」して、東国に合法的な政権を確立させることのできる官職だったわけさ。
いい?征夷大将軍が全てじゃないの。最終的には征夷大将軍へと同化していくんだけど、その前段階では鎌倉殿や総追撫使、近衛大将があって、征夷大将軍はそれを強化して完成させる、そういう意味があったってのを忘れないでいて欲しいんだな。

でもなにかしらの基準は要りますからね。だから「征夷大将軍就任」をもって「幕府成立ということにしている」んでしょうね。受験生の為ですかねぇ。

じゃやっぱりいいんじゃないですか。1192で。

鎌倉幕府成立は他とはちょいと違う、これを押さえておけばまぁ1192だろうが1333だろうが何でもいいよ。

1333は幕府滅亡なんだけどなぁ…

         
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