■ 征夷大将軍とは何か |
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征夷大将軍って何なんでしょ?わかんなくなってきました。
たかが将軍ごときが主権者ってやっぱおかしいように思うんだけどなー。 |
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外国でもあるでしょう?臨時軍政府。あれの常態化したものって考えると良いと思うですよ。 |
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文字通りなんだよねぇ。 |
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夷を征する軍の将? |
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ホントに字面追ったな(笑)
中国の中華思想では自分たちの周りにいる他種族を「東夷・南蛮・西戎・北狄」と言って差別してるんだ。周りは全て野蛮人ってことで、わたしたち東夷としては(笑)あまり気分のいいものではないんだけど、この東夷を討つということで征夷。それをそのまま日本に当てはめてるだけなの。
日本でその対象は蝦夷ってことになるのね。
だから元々は蝦夷を討つ為に設置された官なワケよ、征夷大将軍。 |
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東西南北の順番が教授の嗜好を物語ってますねぇ(笑) |
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あったり前じゃん。この順番でないと気持ち悪いのだ。 |
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もっとも、どちらも元が中国だけにこの順番はあながち間違いでは無いんですが。 |
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坂上田村麻呂に代表される古代の征夷大将軍や征東使の任務って「蝦夷を討つ」それ一点なのさ。
実はこれを逆手に取ったのが頼朝なの。ここに頼朝って言うか彼のブレーンの凄さが現れてるんだよね。 |
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えーーっと。。。 |
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天皇大権の中でも何が重要って生殺与奪の権。三種の神器にある剣はこれを象徴してるんだけど、この権利を戦場で代行するのが将軍なわけよ。
将軍が戦場に赴くとき天皇が剣を与えるんだけど、あれってこの権利の戦場での一時委譲を直々に行ってるということ意味してるんだよ。 |
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ふむふむ。 |
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そういう意味では征夷大将軍の任命は「京都で、御前で」行う必要性があったのよ。本来近衛府って禁中の警護が目的っつーのもあるしね。
大権の委譲はあくまでも京都に居る朝臣(廷臣)に対して行わなければならない。
でも頼朝は京都へなかなか来なかったんだな。 |
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頼朝は鎌倉にありながらそれを望んだと? |
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この時点で既に東国は頼朝の支配下にあったんだけど、ここでそのまま頼朝を征夷大将軍にしてしまうと天皇主権の及ばない範囲にある勢力を天皇自ら朝臣と認めてしまうって論法になっちゃう。
後白河法皇が源義仲には征夷大将軍を認めても、頑なに頼朝には認めなかったのはそこにあるの。 |
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京都外の地で権威を持つ為には京都において大権委譲を行わねばならないってことか。面倒ですねぇ。 |
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それだけ重要ってことですね。
だって征夷大将軍は非常時には陸奥守も鎮守府将軍もその支配下における権限を持ってたんですから。 |
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そう言う意味でも征夷大将軍と言うのは常置の官でなかったのよ。
実際に東北経営をする鎮守府将軍とは性格が違うって言うか。あくまでも臨時軍政府的とでも言えばいいかな。だからこそ大幅な権利拡張が認められてたって言えるんだけど。
でもここで頼朝は天皇大権外で常置の官にしようとした。 |
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はい。 |
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ん?わかってんのか?戦場に於いてのみ代行すべき天皇大権を平時にも代行するってことだよ。 |
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あっ!そっか、天皇大権の範囲外に常置しちゃうことで一時委譲だったはずの権利もそのままその大権外の地で代行し続けるってことかぁ。 |
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うむ、「実質的な朝廷外」で代行するんだから理屈としては通っている訳だ。まんまと日本の分割化に成功したって感じ。
これをもって頼朝の主権簒奪 東国の支配権だけだけど− の総仕上げって感じだよね。 |
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征夷大将軍就任には東北の藤原秀衡の存在も関係してるんではないです? |
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朝廷に就任の要請をした理由は「義経の追討」です。義経=奥州藤原氏でしょうね。 |
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あくまで理由であって最終目的はそれでは無いと思うよ。確かに義経は目の上のたんこぶだったから一石二鳥ではあるけどね。 |
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武門の棟梁的側面はどうです? |
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頼朝以降、征夷大将軍は武門の棟梁としての地位も確立するんだけど、これはやっぱり頼朝が全てを手中に収めて行く過程でその総仕上げと言うか全てを凝縮するための官として征夷大将軍を選んだところに影響してるんじゃないかな?と。
征夷大将軍になったから武門の棟梁になったのではなくって武門の棟梁が征夷大将軍になったと考えた方がいいと思うんだけどな。 |
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征夷大将軍=坂上田村麻呂、鎮守府将軍=藤原秀郷というのが当時の代表的イメージだったようです。 |
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どちらも武門の勇としてのシンボルだったみたいだけど坂上田村麻呂についてはある種神格化された面もあったみたい。それに頼朝もなるんだって言ういうイメージ戦略みたいなものもあったと思ってるよ。村下的には。 |
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後の征夷大将軍はまた意味合いも違ってくると思うんですが。
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例えば『梅松論』なんかを読むと尊氏を指して「天下の将軍、武家の棟梁にて」って言ってるのよね。これってもう将軍=武家の棟梁ってのがあたりまえになったっていうところを表してると見ていいよね。もっと言えば鎌倉期でも頼朝、頼家、実朝、摂家将軍、皇族将軍、そのすべてにおいて「将軍」の意味合いは違ってると思うよ。 家康の時代になると「武士の統領=源氏の嫡流=将軍」だからね。
鎌倉・室町を経てきて将軍像っていうものも形作られたと言って良いんじゃないかしら。 |
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まず頼朝によってその意味合いが大きく変わってるんですねぇ。 |
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えーっとね、頼朝が征夷大将軍になる直前、源義仲がなってるんだけど実はここでも大きな変革があったわけなの。それをさらに押し進めて合法的に東国を朝廷から切り離した頼朝(とそのブレーン)の手腕はもっともっと評価されるべきなんじゃないかなと。 |
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義仲の場合の征夷と言うのは明らかに頼朝を対象としていますよね。 |
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この時義仲は既に後白河法皇との間柄は最悪になっててね、法皇であろうがなんだろうが武門の長の前には容赦しないって感じだったみたいね。
その上で東の頼朝を倒して全てを超越した存在になろうとしてたフシがうかがえるんだな。 |
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そういう意味で義仲の征夷大将軍というのも大きな変革なワケか。
義仲の否定としてあった頼朝もある意味義仲的な面を引き継いでるって言えるのかな?奥が深い。。。 |
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そうだね。天皇から主権を切り離したという先例を開いたのは義仲であって頼朝が最初ではないって言うのはちょっとした発見だよね。
今回はマジで奥が深いよ。 |
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「たまには」こんなのもいかないと! |
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・・・・・。 |