頼家、実朝、摂家将軍、親王将軍。政治的には北条氏の傀儡と化していた彼らが「征夷大将軍史」に果たした役割とは?
そして北条氏によって確立された将軍像とは?

■ 「頼朝的将軍」の質的深化

2代頼家、3代実朝。この二人と頼朝を合わせて「源氏3代」とか呼んでるんだけど、全部まとめて同じ物ってするのは考えものなんだな。実は。

しかし正直な印象としては頼朝の存在が大きすぎてインパクトに欠けますよね。

有名どころって言えば実朝の金塊和歌集くらいですもんね。あとは殺されたとかそんなのばーっかし。
どっちかって言えば北条氏の方が印象に残ってますよ。政子とか時政とか。

政治的に何かやったわけでもないからね。
ただ「将軍」と言うモノにスポットを当ててみた時、やっぱりこの二人は外せないの。それは頼朝無くしても語れない性質のものだから、頼朝からの流れに埋もれてしまうのもわからないでは無いんだけどね。

頼朝や義経に隠れてしまった範頼みたいな?

まず頼家、彼は頼朝の死後「左近衛中将」に任命されて頼朝の後継者になってるの。

え?征夷大将軍ではないんですか?

そう。幕府=将軍で無いっていう証拠の一つになるよね。
頼家が権力を継承したのは征夷大将軍では無くってあくまでも近衛府の将官としてなんだよ。
これって幕府の本来の意味から言えば当然と言えば当然なんだけども。

頼朝の幕府開府が右近衛大将をもってなされたって言う。。。

うん、まだ征夷大将軍は後世のような絶対的なものでなかったんだろうと思うな。
それとここでもう一つ注目したいのは頼朝の時あれだけ後白河法皇が拘った「京都にいない」と言うのがここではもうどうでもよくなってるってところだね。

あ、そうだ。鎌倉にいて任命されてるんだー。

前例の大事さと言うかいい加減さと言うかですね〜。

もう頼朝の時で前例になっちゃったっていうのもあるな。
頼家はもしかしたらそのまま近衛府の長官として権威を継承してたかもしれない。でも結局3年後頼家は征夷大将軍になった。
ここに征夷大将軍の言い知れない魔力みたいなものを感じちゃうよね〜。

実朝はどうなんです?近衛少将ってか?

うーん、当たらずとも遠からずって感じね。
頼家は病気になってしまったので自分の権力を弟の実朝(当時千幡)と子供の一幡に譲るんだけど…。

千幡には関西38ヵ国地頭職、一幡には関東28ヵ国地頭職と総追撫使を譲るって表明します。

ここでも幕府権力の継承は将軍職の継承ってカタチじゃないよね。
鎌倉的権威の根本である「総追撫使・総地頭」って地位の継承が問題になってる。

やっぱり後世の将軍とはちょっと違う感じあるですね〜

ポイントだよね。
あくまで実質的な鎌倉幕府の権力は総追撫使総地頭であって、将軍職は公的な追認形式でしかないって言う。

しかしながらこの決定は北条氏と比企氏の対立を生み、その結果比企氏は滅び実朝に権力が一元化されることとなります。

この中で頼家もまた暗殺されてしまう。
そして北条政子は鎌倉幕府の次期後継者として実朝をいきなり征夷大将軍職に就ける訳なんだけども。。。

アラ、近衛少将じゃないのね。惜しいっ!

頼朝が近衛大将、頼家が近衛中将・・と来て征夷大将軍は最終的な権威付けみたいな感じだったのとはちょっと違うのよね。
この頃あたりから征夷大将軍が鎌倉幕府の主権形式として認知されてきたって言えるんじゃないかしら。

しもしもさんのおっしゃる近衛少将にはこのあと任官されています。
その後も実朝は中納言、近衛中将、大納言、近衛大将、内大臣、右大臣と朝廷の重職に次々と就任していくことになります。

わたしは征夷大将軍のイメージとしてかなり高い位ってのがあったんだけど、あくまでも律令下でのその地位は近衛少将なんかよりも下位だって言うのはちょっと見方が変わるですねぇ。

課外授業(リンク)ではそういうのがわかるページもあるんで是非見に行って欲しいな。

この出世は摂関家並みということで幕府の重鎮の間でも問題になってます。

28歳で従二位右大臣だからね。頼朝でさえ正二位権大納言・近衛大将が最高だったって思うと「なんでそこまで」って考えてしまったんだろうナ。

大江広元や北条義時の「ここは征夷大将軍のみにしておいて、高年に及ぶによって大将を兼ねてはどうか」と言う詰問に対して実朝は「源氏の系統はここに窮まっている。少しでも官位を帯びることによって家名を上げたいのだ」と答えています。

この時期既に幕府の主権形式としては将軍職が対象と認識されているいい例よね。
同時に征夷大将軍というものをそれ以上の職(近衛大将)によって公的権威を保とうとしている側面も伺える。

結果的にこのいわゆる「位討ち・官討ち」という実朝の行為が実朝自身の破滅をもたらします。

将軍職の矛盾の犠牲になったって感も否めないなぁ。

頼家は鎌倉首班としての将軍の道を確立させる中で、実朝は将軍職を権威付けさせていこうとさせる中で、それぞれ犠牲になってる。
否定されるからこそ滅ぼされたんだけど、この後の将軍像はまさにこの2人によって形付けられたって言っていいんじゃないかな。

既に鎌倉首班の形式として将軍が認識されたってカタチはできましたよね?
じゃぁ、将軍職の権威付けってその後どうなったんです?

実朝以降の将軍って知ってるかな?

摂家将軍とか親王将軍とか・・・だったですよね?名前まではわかんないけど。

藤原(九条)頼経・頼嗣の摂関家から来た二人と宗尊・惟康・久明・守邦の四親王ですね。

征夷大将軍がそれ以上の権威によって飾られることで将軍というものを輝かせる、結果的に北条氏が選んだのは「頼朝の否定である実朝の否定の否定」っていう面倒なロジックだったって事ね。

実朝の肯定でしょ?実朝そのものでいいじゃないですか。なんですか、それは。

否定するっていう過程が要るの。
実朝は征夷大将軍をそれ以上の権威で飾ろうとした。それが彼の死を早めてしまったんだけども、この実朝の路線こそ北条氏が摂家将軍、親王将軍によって確立した征夷大将軍像だった訳だね。

それは同時に征夷大将軍をして「飾りモノ」にしてしまう危険性がないですか?

あるでしょうね。実際鎌倉期の将軍はそうだったもんね、頼朝さえも含めて。
でも確かに形式上形骸化したけど同時に形式として不安定だった将軍を安定化させた意味合いは大きいと思うんだな。確かにいろいろ北条氏には策謀はあったと思う。でもそういうことを抜きにして考えた場合、頼朝を殺し(疑問あり)、頼家を殺し、実朝を殺した北条氏の本意ってーのは武門の棟梁、将軍というものを源氏から切り離して普遍的主権形式化させる狙いがあったんじゃないかなーって思えるんだ。

摂家将軍、親王将軍が実現することで将軍主権形式はもはや公権外主権ではなく、公家としての将軍、またその逆すら可能であるって政治形式に変化しているのも見逃せません。

武門の棟梁たるものは征夷大将軍でなければならない。
日本の独特な主権形式は公家による将軍という「事実」を以て最終的に決定付けられてる。
武家首班はこの形式でないとならないっていう普遍性はここで不変になってるんだねー。

鎌倉時代は征夷大将軍が名実共に日本の主権者となる為の時代って感じですねぇ。またまた奥が深い…。

「たまには」こういうのもいいんでしょ?(笑)
今回ここで押さえておきたいのは頼朝が全てではないってこと。
全ての根元は確かに頼朝に来る、でも征夷大将軍というものは彼が全てを開いたのでもなければ彼によって完成されたモノでもないってことよ。
征夷大将軍が日本の特別な主権形式として確立されるのは実朝やその後の摂家将軍・親王将軍によってという側面が大きいんだね。

その字面だけ追っていたんじゃだめってことかー。

「否定の否定」の対象としてまず頼朝はクローズアップされる、でも「はじめに頼朝ありきでは無い」んだなー。

こんがらがってきました。。。

悩みなさい、苦しみなさい。イッヒッヒ。

         
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