欽明朝、揺れ動く王権の安定は欽明にとって必須の課題であった。
果たして王位継承権はどのようにして確立されていったのか?

■ 王位継承

教授おっしゃるところの「継体天皇によって強引に一本化された王統」は以後この系統でのみ継承されていくことになります・・・でよろしいでしょうか?

そうね、この後はこの系統だけって思っていいんじゃないかな?
で、今度はこの系統をどうやって維持していくか?ってことになるわよね。

一般的にはこの時期の王位継承は「兄弟相続」というのが基本となってるって言われてます。

普通はそう見るかもしれないね。

またつっかかってきたよ、この人は・・・。

クセぢゃ。しょうがないのぢゃ。
でも間違いは正しておかないとね!

間違ってるのか・・・。

基本は欽明天皇だね。
継体没後の安閑・宣化と揺れた王統を克服したって意味でこの欽明後ってのはかなり重要になるんだな。

欽明のあとは敏達・用明・崇峻・推古と来ます。これは兄弟相続に則ってますよね。

うん、でも推古は欽明皇女っていうよりも敏達大后って意味合いの方が強いように感じるな。
まぁいいや。次は?

舒明・皇極・孝徳・斉明ですね。

ホレ、もうあやしくなった。
舒明は敏達の孫で推古からみたら義理の孫なのよ。
で、その舒明と王位を争ったのは推古の甥の子の山背大兄王でやっぱり孫の世代でしょ。

でも皇極は舒明の兄弟ですよね。

これは推古と同じく皇極が舒明大后であったって意味が大きいと思うんだ。

さっきから気になってたんですが、何です?大后って。

後で説明するから今は聞き流しなさい。

なんだかなぁ。。。孝徳は皇極の弟ですよ。

一見すれば兄弟相続でしょうね、ここには史上初の「生前譲位」っていうのがあるんだけど、まぁ百歩譲ってここが兄弟相続だったとしてもその後の孝徳・斉明のラインはどう考えてもおかしくない?

兄弟(笑)

まぁ兄弟には違いないけどさー、弟から一度即位の経験のある姉への継承って単純な兄弟相続とは一線を引くって思えちゃうんだよ。
ここには何か他の要因があるように思えてしょうがないんだなー。

それは?

ズバリ「世代内継承」だね。
これでいけばこの時期の王位継承についてすんなり説明がついちゃうんだよ。
ある特定の天皇から考えてその子の世代の王族の中で王位に就ける人間を探す。で、その世代が尽きたら孫の世代に移るって感じ。

似たようなもんですけどね。

まぁそれはあるね。この残骸みたいなものは後の制度からも想像できると思うんだ。蔭位の制とか親王・王の区切りなんかはこの慣習の余韻だって思えてしょうがない。

あ、でも皇極は舒明とは世代がひとつ下のような気がしますが。

おー、いいところに気が付くねー。
皇極は元々欽明玄孫の世代なんだけど、舒明大后となることで欽明曾孫の世代になったと考えて欲しい。

少々強引ではないですか?

んー、そうねぇ。。。
例えば8世紀に長屋王っていたでしょ。でもちょっと前に出土した木簡によって彼は長屋親王って呼ばれてたのが判明してるよね。

親王の子である長屋王はあくまで王であって親王じゃないはずなんです。

でしょ?でも彼は親王と呼ばれてた。これは彼の妻が吉備内親王であったからだと想像できるワケさ。内親王の夫となることで彼もまた世代が一つ昇格したって感じだな。

孝徳は全く欽明玄孫になりますが。。。

おそらくここでやっと次の世代が大王として登場してくるってわけさ。

中大兄皇子なんかもこの世代ですよね。

うん。そろそろ激動の時代へ突入するって感じだね。

         
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