五世紀、中国南朝宋の冊封体制下に入った倭国。
宋書に記述された「倭の五王」の実態に迫る。
そして大伴金村によって擁立された「応神五世孫」を名乗る継体天皇即位の意味するものとは?

■ 倭の五王と継体天皇

『宋書』倭国伝によりますと讃・珍・済・興・武という「倭の五王」が朝貢にやってきて宋の冊封体制下に入ったことがわかります。
一般的には讃=履中天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇と言われてます。

な〜んでこんな名前になっちゃうのかよくわかんないんだけど、諸説あるよね。
武は雄略ってことでかなり通ってるけど武=欽明天皇って説もある。

で、それが何か?

『宋書』百済伝から想像して讃・珍と済・興・武との間に王統の交代があったんじゃないか?って言われてるんだ。直接の血縁関係も無かったんじゃないか?と。

またとんでもないことを言い出しますねー。

この前の講義でもお話したけど、まだまだ王位の継承って今思うほどスムーズにいっていなかったと考えるのが正着な気がするんだよ。
この王位継承についてのお話はしばらくひっぱるかと思うんだけど、後世の考え方がそのまま古代にもあてはめられるとはちょっと納得いかないって感じなんだな。

権力闘争ですか?

ある複数の集団から選出はされたんだろうけど「ここの家からのみ」っていうふうにはなってなかったんじゃないかな。これは後の講義でお話するつもりよ。ここではそうであると前提してお話するね。

強引だなぁ。。。

ここには継体天皇の強烈な意志を感じるんだよ。大王を選出する一方の集団である継体によって両統の系図上の合体が行われたって考えられるんだよ。
簡単に言えば自分(継体)の出た方じゃない系統の上に仁徳という人格を創作して、さらに自分の系統では五世代前にあたるとした(おそらくは3世代前だろうけど)応神天皇の子供を創作してその創作した人格を同一のものとした。って感じになるのかな。これをもって両統の系図上の一本化が図られたってワケ。
これは継体による王統一本化政策の現れと見えるんだ。

むずかしいですー。

『記紀』と『上宮記』から想定するとこれがピタっときちゃうわけなのさ。
そこには架空の人物の創造が入ってるからなかなか難しいんだけどね。
とにかく自称「応神天皇の五世孫」である継体がすんなり即位できたってことは5世紀、6世紀の間はまだまだある特定の集団から支配者を出すって構造になってなかったって思えるんだな。それを自らの系統に一本化させようとしたのが継体なんだって感じ。

なんでそれまで一本化されてなかったんでしょう?

それは「まだまだ未成熟であったから」に尽きるんじゃない?
4世紀からはの最高権力者にはそれまでのように国内の紛争調停とかの他に国外に対してもそういう面が求められたでしょうからね。現在の最高権力者になにかしらの失政があった場合には別の集団から最高権力者を出すってカタチだったんだと思うんだ。

うーん、まだちょっと信じがたいですよ〜。

ま、「万世一系」だからね。そう教えられてたんだもん、しょうがないさ。
ただ王位継承権はこの時期にはまだまだ確立していなかったって想像できる。
これは継体と言う名前からも想像できるんだけど。

意味は文字通り体制を継ぐって意味ですよね?ぴったりじゃないですかー。

ところがぎっちょん(死語)「継」、この字には血縁関係の意味合いは無いの。ある場合なら「嗣」この字になるのね。
系統の移動がここからも想像できるってワケ。

んー。んー。

まぁこの後の講義を聞いていればわかるよーになるさ。

まさか洗脳されてるのかも…

そんなオチをつけるんぢゃないっ!

         
1つ戻ります 1つ進みます 項目トップへ

【各授業トップページへ飛びます】
-古代- -飛鳥・奈良- -平安- -鎌倉- -室町- -安土桃山- -江戸-
-幕末・維新- -明治・大正- -昭和初期- -昭和以降- -課外授業- -研究室-