■ 中国冊封体制下の倭国 |
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”漢委奴国王”って知ってるよね? |
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有名ですよね。金印があってさ。教科書なんかでもばっちり出てますよね〜。 |
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日本の文献からはこの国の実在は証明できませんが『漢書地里志』でこの国の記述があります。
しもしもさんのおっしゃる金印が見つかったことで確定的なものになりましたね。 |
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この後『後漢書東夷伝』にも倭についての記述があるんだけど、その中には「倭国王帥升等」って書いてあるよね。
これってどういう意味かわかる? |
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倭国の帥升たちが(朝貢した)って意味ですよね? |
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その「帥升たち」っていうのは? |
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たしか「生口」って呼ばれる奴隷を160人献上したんですよね?それってかなりの大使節団だったって意味だと思うんですが。 |
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ふむふむ。 |
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倭国王の帥升が奴隷を含めた一大使節で来たので帥升たちって・・・ |
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えーっとね、この頃の日本っていうのはまだまとまった一つの国家じゃなかったのよ。
この時は一応奴国の首長である帥升が代表としてやってきただけだって思えるんだよね。 |
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でも「代表」なんでしょ? |
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九州北部にあった集団と言うか国って言うかの代表ではあったんだろうけどそれはイコール絶対的な君主ではなくってあくまでもいち代表であったって思うのよ。
「等」と言う記述から当時の奴国周辺には同一の権利って言うか勢力をもった首長が居たって想像できるんだよね。 |
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連合政権みたいな? |
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そうね、皇帝に差し出すモノに帥升との連名を強烈に主張する勢力が存在したって感じ。
あくまで帥升は首長連合のone of themであるっていう他の首長たちの主張が伺えるんだよ(しゃれじゃないぞ)。
ただ後漢の冊封体制下に入ることによって奴国及びその周辺国の連合政権への権威付けができてたって面は無視できないと思うよ。って言うか朝貢の目的はそこにあるんだろうけど。 |
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しかし後漢はその勢力を徐々に後退させて行きます。 |
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そして中国は三国志の時代に突入すると。 |
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後漢の冊封体制下にいることで自身の権威化を図っていた奴国他は後漢の消滅で強力な後ろ盾を失ってしまう。
それが『魏志』に出る「倭国大乱」に繋がると予想できるよね。
このあたりはまた後の講義でやる戦国時代と同じようなニホヒを感じるな。 |
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で、いよいよ卑弥呼ですか。 |
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『魏志』によれば最初男子の王を立てたが内乱は収まることがなかったので、「鬼道」と呼ばれる術に長けた邪馬台国の卑弥呼を女王として立てることで内乱を収束させることができたということになっています。
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村下的には「卑弥呼」はいわゆる地位の名称であって人名では無いって思ってるんだけど、それはまぁいいとしよう。
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何故男でダメなのに女だと収まるんでしょうね? |
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さぁさ、そこよ、そこ。「卑弥呼」には男弟がいて「卑弥呼」は彼を通して意思の伝達を図ってたってなってるでしょ? |
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他の人間とは顔をあわすこともなかったと言われてますね。 |
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古代九州や中国地方の古墳のを見る限り女性の首長がいてもおかしくないの。それはいいんだけどこの頃の首長って言うのは武力も兼ね備えた人物でないとダメなワケよ。実力主義の時代なんだからね。
でも「卑弥呼」の権威は明らかにそれとは異質なものでしょ?
わたしとしてはその「男弟」こそ邪馬台国の首長であり連合政権の代表であったという見解に立つ。 |
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でも『魏志倭人伝』だとそうは書いていないんですよね? |
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「卑弥呼」と言うのは後漢に代わって代表者へ権威付けする役割を負わされてたんじゃないかなーって言うことよ。「太陽的な権威」とでもいうのかな?−このあたり天照大神を想像させるんだけど−「卑弥呼」によってその権威を保証された代表者が魏へ朝貢した際に、そういう事情を知らない中国の人は「卑弥呼」こそが代表者だと思ったんじゃないかな〜って。 |
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「親魏倭王」って称号をもらってますよね。 |
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これはね、当時の魏や後の晋の内政状況が関係してるんだよ。
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よくわかりません。 |
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当時魏の西部にはクシャン族の建てた大国家があったの。ガンダーラ美術で有名な。その国を中国では「大月氏」って呼んでいたのよ。
西斗月拳発祥の地かな(笑) |
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229年ヴァースディーヴァ王が魏へ使者を出して「親魏大月氏王」の名称があたえられ魏の冊封体制下に入っていますね。 |
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この「親魏大月氏王」付与に尽力したのが「曹真」って人なんだけど、その曹真の政敵があの「司馬懿」なのさ。 |
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知りません。 |
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ガク |
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司馬懿以降司馬氏は魏の政権内で絶大な権力を持つに至ります。
司馬懿の孫である司馬炎は遂に魏の元帝を退位させて自ら帝位に就きます。これが晋の武帝です。 |
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西の勢力に地盤を持つ曹真に対して東を管轄する司馬懿にとってはどうしても大月氏に対抗しうる勢力が必要だったわけね。それが倭国ってワケ。
これは今でも論議を巻き起こしてる邪馬台国の位置も関係してるんだよ。 |
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『魏志』通りにいけばグァムあたりになっちゃうっていうアレですか? |
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うん。司馬懿にとって倭国はクシャンと対抗しうる同規模の国でないとならなかったわけね。
クシャンは洛陽から16370里となってたのよ。それに対して邪馬台国は帯方郡から12000里程度。
帯方郡と洛陽は大体5500里くらいだから同じくらいになるでしょ? |
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いい加減ですねぇ。 |
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『魏志』って言うか『三国志』が書かれた時代は晋の時代ですから、うそとわかっていても司馬懿の功績を書き換えることなんてできなかったんでしょうね。
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もう一つ、「魏の冊封下にある倭国」を南方に持ってくることによって呉への牽制にもなる。 |
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うーむ、いいように利用されてるんですねぇ。 |
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距離だけじゃないぞ。 |
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まだ何かあるんですか? |
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『魏志』によれば当時の倭国の戸数は15万。特に邪馬台国の7万戸ってのはどう考えても上げ底風味じゃない?
晋の時代、洛陽を含む河南郡12県で11万5千戸なんだよね、それより半世紀前の魏の洛陽なんて多く見積もっても8万戸ぐらいでしょ?
邪馬台国が洛陽に匹敵する国家だったとはとても思えないんだなー。 |
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ですよねぇ。当時世界トップレベルの都市と同じくらいだったなんてねぇ。 |
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距離にしろ戸数にしろ倭国がいかに、少なくとも大月氏に匹敵する、大国であるかってアピールだろうね。 |
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それによって「親魏倭王」の称号を正当化させようって魂胆があるわけですね。 |
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そう。
で、その大国を朝貢させた司馬懿を顕彰するって視点で書かれてるワケよ、『魏志倭人伝』 |
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正しくは『三国志』の魏志東夷伝ですけどね。 |
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あまり信用できないって思っておいたほうがいいね。特に中国と関係するところなんかは。 |
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さて卑弥呼の死後、男王の治める倭国は再び争乱の時代に突入しますが、卑弥呼の近親者である壱与という女性を王位につけることで争いは収まったということになっています。 |
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初代「卑弥呼」登場前夜と同じ状況だよね。
これはすなわち倭国内では圧倒的な勢力がまだ登場してないって証明になるね。あくまで国家間より選出された−おそらくは最大勢力ではあったろうけど−ある国家の首長が代表として各国間の調整を行っていたと考えるべきだと思うのよ。 |
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勢力がフラットであるからこそ、その代表には代表たる権威付けが必要だったと言うワケですね。 |
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中国のような易姓革命説なんか無いんだし、他と比べて圧倒的な武力をもつでもないあくまで代表である自らの権威をどのように保証するかって言うのは、この時期少なくとも大和朝廷が安定的に確立するまでは非常に微妙な問題だったって思えるの。前方後円墳なんかは各地の陵墓を統合したようなカタチをしてるでしょ?これって同じシンボルを頂くことで共同体を作ろうって姿勢の現れだって思えてしょうがないんだよねー。 |
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それが大和朝廷に繋がるワケですか? |
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前方後円墳の出現時期と分布状況からしてその旗振り役だったのが畿内に勢力を持つ大王家だったんじゃないかな、とね。 |
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いよいよ日本統一ですかー |
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んー、それがそうもいかないんだなー。それはまた次の講義で。 |