自由民権運動。
日本初の民主主義を掲げた運動として名高い明治初期のこの運動は遂に国会開設の約束を取り付けることに成功した。
しかし・・・

■ 板垣死すとも自由は死せず

近代史初の講義(明治以降の講義で一番最初にアップされたのがこの講義)はあの有名なセリフからなんですね。

自由民権運動って言うのは征韓論をきっかけに政界から退いた板垣退助や後藤象二郎なんかが提出した『民撰議院設立建白書』が元になった運動ですよね。

以前に「ヒトコト言わせて」でお話したんだけど、いわゆる岩倉使節団で渡欧した一団と居残り組の一団とで勢力争いがあったんだよね。
板垣は西郷隆盛たちと共に岩倉具視とか木戸孝允あたりと衝突しちゃって下野したんだけど、このあたりの動きを見ると村下的に見れば「政界への未練たらたらじゃないのよ」って感じなんだよね〜。

って言うか民撰議院って何?

民間から選ばれた人によって構成される議院、いわば国会のことだね。
「国会を作れ!」と、要はそういうことなの。

西南戦争とか不平士族の反乱とかって言われるあのあたり一連の実力行使とはちょっと一線を画してるって感じしますね。

ところがそうでもないんだよ。
板垣は必ずしも言論によってのみ政界復帰を狙ったようには見えないのよね〜。

板垣の片腕と言われてる林有造がこの時期鹿児島へ行ってる事実があります。
どうもそこでは西郷と会談して西郷が薩摩で挙兵すれば土佐(板垣や後藤の地元)でもそれに呼応して挙兵する準備があると伝えてるようです。

この動きを見てもわかるように、彼らはまた維新と同じようなことをやろうとしてたフシが伺えるよね。
当初の建白書はあくまでクーデタ成功後の大義名分としてのモノであって、後の政党政治を志向してたとは到底思えない。

へ〜。板垣退助に武闘派のイメージって無いんだけどな〜。

う〜ん、戊辰戦争の時の江戸城無血開城なんかにも板垣は大反対でね、会津城陥落の時の最前線で活躍したのも彼だし。

土佐藩って坂本龍馬に代表されるように佐幕の穏健派ってイメージが強いんだけどなぁ。

でもその中にあっても板垣は徹底した武力倒幕派だったんだよ。

あれ?でも西南戦争で西郷隆盛は挙兵してますよね?その時に板垣退助って動いてましたっけ?

そういうことはあまり聞かないけどね、実は裏で西郷軍と合流しようとしてるんだ。
そこは林が約束した通りなんだよ。
でも明治新政府の動きの方が速かった。

実はこの時期、板垣たちの勢力には政府のスパイがもぐりこんでいたんですよ。だから彼らの行動は筒抜けだったんです。

そりゃダメだ。
でも政府の転覆を企ててたワケでしょ?よく許してもらえましたね。

実はさっきの林とかを筆頭に挙兵計画に関係していたほとんどの人間は逮捕されてるんですよ。
土佐方面がこのように骨抜きになって行くのと時を同じくして西郷の方も政府軍に敗れてしまうんです。

西郷軍もそうだけど反乱士族の中ではまだまだ「我々のように元々戦いが本職だった人間が徴兵なんかで寄せ集めた軍隊なんかに負けやしない」って自負があったんだよね。
でもその自信も一連の反乱の中で木っ端微塵に打ち砕かれちゃった。
板垣はこれ以後一度も武力で政府と対抗しようとしてないんだけど、それはこの西南戦争で痛感したからなんだろうね。

でも中心人物である板垣や後藤はなぜ逮捕されなかったんでしょう?

これは当時の政府の方針として「板垣・後藤を本当の敵にしない」ってのがあったのよ。
ある意味、反政府勢力との緩衝材的な役割も期待してたんじゃない?
明治新政府がある程度の批判勢力は必要だって認識してたとしたら大したもんだよね。

そういう意味ではなかなか健全とも言えますよね、明治新政府。

ま、板垣はともかく後藤象二郎は組みし易しと思ってたんじゃない?いつでも懐柔できる、みたいな。
実際この後も板垣派の切り崩しには必ず後藤の懐柔から始まってるしね。

よくそういう人をいつまでも仲間に入れてますね。

彼は一時期実業家として苦しんだことがあるのね、だからすごい現実派だったんじゃないかしら?
こういう思想活動って理想論だけで走りがちなんだけど彼みたいな人間がいたからこそ成り立っていけてたってのは言えるカモしれない。
組織ってそういうモンなんじゃないかな。

その後板垣は精力的に言論による自由民権運動へとハマって行きます。
そして彼を中心として「愛国社」が結成されるんですが、1880(明治13)年の大会において『国会開設允下を上願する書』を太政官へ提出することが決定されます。
しかし太政官はこれを却下します。これによって逆に運動はますます盛んになって行くんです。

でもまぁいつの世も反政府活動ってーのは弾圧されるモノでね、この時もご多分に漏れず相当弾圧されてるんだよね。

1875(明治8)年に讒謗律、1880(明治13)年に集会条例の発布によって言論・集会活動は大きく規制を受けることとなりました。

でも「ダメだ」って言われるとやりたくなっちゃうのが人間の本性ですからね〜。

わかってるじゃん。
ちょうどこの時期米価上昇による地租の上昇もあって政府に対する反感が大きくなるの。

それと連動するように自由民権運動は更に大きく広がっていことになります。
そして翌年、遂に自由党が結成されます。総理にはもちろん板垣がつきます。
この総理って言うのは総理大臣のことじゃないですよ、しもしもさん。

わ、わかってるわよっ!失礼しちゃうわね!

ホントかしら・・・(-.-)

あ、あったりまえじゃないですか!な、何を疑ってるんですかっ。

じー(・_・)

じー(・_・)

ううっ。

あはは。まぁそれはそれとして、同じ時期に大蔵卿の大隈重信がが「官有物払い下げ事件」の余波をくらって政界から追放されてしまいます。

名目上の理由はアレコレあるんだけど、実際は閣議で国会開設を主張して伊藤博文から嫌われたからなんだ。

そんな私的な理由で良いんですか?

だから名目上は汚職疑惑とか反政府の黒幕だとかって理由はあるんだけどね。
伊藤が上手いのは大隈追放と合わせて「10年後に国会開設する」って宣言を天皇から詔勅させて世論の押さえ込みもやってるってことなのよ。

う〜ん・・・大隈追放でたしかに政界でそういう思想の排除はできたんでしょうけど、それってその場しのぎって気がするなぁ。

だよね。この大隈の下野によって大隈は立憲改進党結成に走るんだよ。
もはや世論はそっち方面、政党政治志向へ向かわざるを得ない方向に動いてるよね。

ここで板垣と大隈が連携すればすごい活動体になりますね。
たしか一緒にやるようになるんですよね。

う〜ん、それはもうちょっと後になってからだな〜。この時期は両党の支持層もやり方も全然違ってたんだ。
それに自党内での主導権争いに明け暮れててとても「一緒にやろう」って動きにまでたどり着けなかった。

いいチャンスなのに何やってんでしょうねぇ。

ある程度の組織ができるとその中で派閥ができるのはどうしようもないからねぇ。

しかしこの「大隈下野」と「国会開設の詔」によって気を良くした板垣は更なる民意高揚を目指して全国遊説に飛び回ります。
そんな中の1882(明治15)年、岐阜富茂村での演説を終えた板垣は1人の小学校教員に襲われます。

この時にあの有名なセリフが出るワケですね。
「板垣死すとも自由は死せず」。なかなかカッコイイじゃん。

それがこのセリフ、本人が言ったのか取り巻きが言ったのかってあたりが実は定かじゃないんだよね。
でもこの事件を報じる新聞が一斉にこのことを書き散らしたんで「そういうことになった」ってだけなんだよ。

え゛、そうなんですか?

まぁ誰が言ったかなんて関係なく、時代の空気とぴったり合ってるからね。
すっかりこのセリフが独り歩きしちゃったんだな。
でもこれで一気に自由党人気が跳ね上がったの。

その後板垣や後藤の外遊に政府から資金が流れてると言うことで一旦は下火になる運動ですが、諸外国との条約改正問題がわき上がって再び自由民権運動の炎が燃えてくるんです。

しぶといですねぇ(笑)
でも考えてみれば反政府としての運動ってこれくらいしかなかったんじゃないです?

確かにそれはあるんだよ。
もうひとつの勢力として大隈の進歩党(立憲改進党から改名)は存在してたワケだけど、こっちは都市部の財産家あたりの支持が多くて自由党ほど草の根的な運動になりえてなかったんだな。

でも大隈の方もそれなりの支持があったからこそ無視できない勢力だったんですよね?

うん、進歩党が自由党とタメ張れるくらいの勢力であったのはこの後の選挙制度の関係もあるのね。

あの制限選挙ですね。

そうそう。一定の税金(直接国税を15円以上)を納めた男子でないと選挙権がなかった。
この制限では進歩党の支持者の重みってのはかなり大きいの。

1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布され、翌1890(明治23)年に帝国議会開設のタメ第一回衆議院選挙が行われます。
ここでいきなり野党が過半数を押さえます。

野党が過半数を取っても組閣できないってあたりに大日本帝国憲法下での政治の難しさがあるんだよなぁ。

しかしその後自由党は大隈重信の進歩党と合併して憲政党を結成します。
そして大隈に組閣の大命が下るんです。

いつぞやの細川さんみたいですね。日本新党でしたっけ?新進党でしたっけ?

当時の細川首相は日本新党だね。でもそれとは全然違うんだな。

え?違うんですか?過半数を握ってるんでしょ?

そもそも憲法が違うじゃん。
今の内閣総理大臣って言うのは議会に指名権も罷免権もあるワケよ。だから首相は最大派閥の総裁がそのまま横滑りして首相になるの。議会で選挙したら最大派閥の代表が票を集めるワケだからね。

しかし大日本帝国憲法では首相の任命権は天皇にあります。

まぁ実際に天皇自らが誰かを選んで首相に指名したなんて事は一度も無くって、実質は元老って呼ばれる実力者たちが決めたことを天皇が裁可して形式上天皇が任命するってカタチにしてるだけだったんだけどね。

一応現憲法でも任命するのは天皇です。手続き上は結構似てるんですよね。

まぁね。
んで、この当時圧倒的実力を持っていたのがあの伊藤博文なの。
当時の伊藤の最大の政敵、山県有朋に政権を奪わそうになったので慌てて伊藤が大隈内閣誕生へ走った結果が大隈重信首相誕生の理由なのよ。

ある意味では妥協案的な面が伺えますね。

この後も伊藤は次々と憲政党の懐柔策へ走るんだけどこのあたりは持ちつ持たれつって感じなの。

ん?「最大実力者」も大変なんですねぇ。

大きなところでは予算ですね。特に軍事費。
政府や軍部が要求する軍事費も憲政党他の野党が過半数を握る国会では承認されないんですよ。

へえ〜、割とそういうところはきっちり押さえが効いてるんですね。
わたしはもっと強引にできるのかと思ってましたよ。

大日本帝国憲法は各所で矛盾があってね。
例えばこの件で言えば「予算ハ議会ノ協賛ヲ経ベシ」って憲法にひっかかる訳だけど、一方で帝国議会が政府の同意無く廃除したモノは政府の手によって原案を執行できることにもなってんの。

どっちなのよ〜!みたいな(笑)

この後の講義でも出てくる統帥権独立の問題もそうだけど、実質事後承認する存在でしかない天皇を根本に定義して、全ての国家機関はその翼賛機関って規定だからね、大日本帝国憲法は。
だから最終的には誰かが天皇に「こういうふうにしましょう」って具合に執奏して認可をもらってそういう方向に持ってっちゃう。
これってこの後のあらゆることの根元的な問題なんだよ。

ここで伊藤は天皇の詔勅や旧自由党TOPの板垣・後藤と言ったあたりと閣僚に据えることで自派に取り込もうとしてますね。

そんなことできるんですか?

かつてあった弾圧で旧自由党内の急進派はすっかり影を潜めてしまってたんで割とあっさりできちゃうんだな、コレが。

1900(明治33)年、遂にここで憲政党は伊藤博文の立憲政友会へ吸収合併されます。

大日本帝国憲法の発布から伊藤による数々の懐柔策によって、もはやこの時期「自由民権運動」って言われた活動はその意味を無くしていた、骨抜きになってたのよ。

実質的には選挙が行われて帝国議会が開かれた時点で「自由民権運動」は終わったんでしょうけど、この合併を以て名実共に運動としての自由民権運動は終焉したと言えるでしょうね。

確かにね。
でも同時にこれは19世紀末に圧倒的権勢を誇った伊藤をもってしても、もはやその権勢を維持させるタメには憲政党を取り込んで本格的な政党政治へ移行せざるを得なかったとも説明できる。

ここから本格的な政党政治が始まるんですね。

数々の矛盾を内包した大日本帝国憲法下で政党政治がどのように行われていったかってーのはなかなか見ものだよ。

アラマ、これは次の講義が楽しみですねぇ。

次にまた近代史の講義をやると言う保障は全然無いんですけどね。

         
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