中先代の乱平定の為に任官された征東将軍を事実上の征夷大将軍として幕府形式を整えた尊氏。
かつて朝廷と離れた地であることにその存在意義のあった幕府が京都で開かれた理由とは何か。
幕府はおろか武家そのものの性格まで一変させることとなる室町開府が意味するものとは?

■ 「在京都」幕府の意味

室町幕府って京都にある幕府ですよね。
たしか村下センセは鎌倉の講義で「将軍は京都外で天皇大権を代行する」とかって言いませんでしたっけ?
それでいくと京都に将軍が居たんじゃ、代行どころかその名実も何も無くなっちゃうような気がするんですよねぇ。

そうね。そもそも征夷大将軍や幕府制度って言うモノはその本質に「京都の外にあること」を大前提としたモノなのよ。
鎌倉幕府ってーのは「たまたま鎌倉にあった幕府」なんじゃなくって、「鎌倉にあることが必須の幕府」なんだよね。ソレは鎌倉の講義でお話したあたりからわかるかと思うんだけど。

なのに室町幕府はなぜ京都にあるんですか?
征夷大将軍として天皇大権を代行するのであれば京都に居ちゃ辻褄が合わなくなりませんか?

源氏三代が滅んだ後に摂家将軍、親王将軍を迎えたお話もしたよね?

将軍がそれ以上の権威によって飾られること、公家である将軍が実現することで将軍はもはや公権外主権でなくなったとかってお話がありました。

特に「征夷大将軍」について顕著なんだけど、ある特定の官職なり役職なりが設置当初と同じ機能なり目的なりではなくって時代と共に変化してるって面は気に留めておく必要はあると思うのね。

足利尊氏が室町幕府を開いた時点で既に鎌倉幕府とはその性格から何からが変質してしまってたと。

尊氏が幕府を興す時には、もはや幕府も征夷大将軍も京都の外にあることを必要としないばかりか、むしろ京都にあることを必要としてる政治形態になってるのね。

建武新政の時に護良親王が征夷大将軍になってると思うんですけど、それはどうなんです?
これも在京都の将軍ですよね。幕府は開かなかったケド。

護良親王の将軍就任は見逃せないよね。この時から征夷大将軍の観念が「いつでもどこでもあてはまる武門の長」になってる。
尊氏は更にソレを一歩押し進めて幕府・将軍と言うモノが「いつでもどこでもあてはまる武門政権」にしてるワケよ。

源義家や藤原秀郷に代表されるように武家と言うものが本来その地盤を東国に持つと捉えられていただけに、この事実と言うのは武士と言う定義も曖昧にしてる点も見逃せないと思います。

そう、そうなのよ。
室町将軍と言うのは京都から離れようとしていた鎌倉将軍と全く逆で、京都=朝廷と同化してそれをも包含しようとしてるトコロに愁眉があると思うのね。
それの最たるモノが足利義満なんだけどソレについては別の講義でやるから置いておくとして・・・。

タシカに鎌倉幕府でなく京都幕府って言うカタチでは幕府と朝廷の関係にもすごい影響はあったでしょうね。

幕府が京都の外にあったからこそ朝廷は曲がりなりにも幕府より上級の独立した政治組織って形態を取ることができてた訳です。
その幕府が京都に開かれるとなるともはや朝廷はその実はおろか形式さえも失うことになるんですよね。

別に鎌倉でも良かったんでしょ?
ってゆーか尊氏は最初鎌倉で幕府を興すつもりだったとか聞いてますが。

それはね、「鎌倉殿」みたいな形式がもはやない時代、単なる政治首班としての将軍の名前しか無くなっちゃってて、幕府が中央であり、国家であると言う名目を必要としたワケよ。
だからこそ幕府は京都で朝廷をもその中に組み込むカタチにしなきゃなんなかったワケ。

『太平記』によりますと、北朝の天皇はまるで奴隷のように武家に服従して、その庇護のもとに赤ん坊が親に養われるような形でその地位を保っていたってありますよね。

事実上だけじゃなくって呼称の面でも幕府・将軍が最高政府になった言い例が「公方」って呼び方なの。

え?「公方」って将軍のことですよね。徳川綱吉とかって「犬公方」って言われてたじゃないですか。時代が違うけど。

一番有名なのはやっぱり綱吉でしょうね。
他にも室町時代で言えば鎌倉府の関東公方ですとか古河公方、堀越公方なんて言うのもありますよね。

このあたりわかり辛いんですよね。関東管領とか上杉氏とかってややこしくって。

元々鎌倉府のTOPである足利氏が関東管領だったんですけど、その関東管領が「関東公方」と呼ばれるようになって関東管領はその下の地位にある上杉氏が世襲していくようになったんです。
だから初期関東管領と後期関東管領って全然別物なんです。

ややこしいなぁ。

奥州の北畠氏の没落によって新たに奥羽両国も鎌倉府の管轄となった訳ですけど、鎌倉府はここの統治の為に二代関東管領足利氏満の子供二人(満貞・満直)を派遣するんです。
この二人もまた「篠河公方・稲村公方」って呼ばれてたんですよ。

そう言えば「流れ公方」とか「島公方」なんて呼ばれた人もいましたよね。公方だらけだ(笑)

室町幕府十代将軍義稙(よしたね)ですね。この人はよく名前変えてるのでわかりにくいのが尚一層拍車をかけてますよね。

ってゆーか、何で黙ってるんです?

うん、あのね、「公方=将軍」で別に間違いじゃないんだけどそもそも「公方」って言うのは「天皇」のことだったってーのはわかっておいて欲しいんだな。

え?公方って天皇のことなんですか?

「公」って「おおやけ」でしょ。コレって「大宅(おおやけ)」すなわち天皇の住居のことなのね。
帝(みかど)が御門(みかど)なのと同じように下々の者が上の者を敬って言う言葉なのよ。

トンチみたいでヘンな感じ。

武家に対する公家と同じように本来は将軍ってゆーか武士なんかとは正反対に位置するモノだったハズなのよね。それがいつの間にか武家(将軍)を意味する言葉になっちゃった。それは何故か。

何故でしょう?

そこで歴代足利将軍屈指、いや日本史上屈指の権力者であった足利義満が出てくるワケさ。
義満については別の講義でやるからここではサラっと流すけど、ハイ晴田くん。

『貞丈雑記』によれば天皇から尊氏に公方号の勅許があったようです。
ただ尊氏は「公方になってしまうと甲冑を帯することができなくなり、武力平定できかねる」と言うことで辞退してます。しかし一旦勅許したものを取り下げることはできないと言うことで尊氏へ預けられると言うことで決まったようですね。
ですので尊氏・義詮は公方を称することは無かったようです。好んで使うようになったのが義満以降ですね。

もうひとつあってさ、これは義満の皇位簒奪とも大きく関係するんだけど「公家に摂家があるように武家にも棟梁の職が欲しい」みたいなところから公方号の勅許があったとも言われてるんだよね。

五三の桐とか菊の紋みたいなモノですか?

そうだね。元々天皇にしか許されていないモノだけどあなたにも許してあげましょう、って感じよね。
ここで遂に武家は名実共に日本の支配者になったとも言えるワケなの。

公方=天皇ってことはそれを許したってのは天皇と認めた・・・ってことですか?

『貞丈雑記』の記述の中で天皇ではなく、「治天の君」と言われた実質的な最高権力者の上皇と対比させて書いてるところなんかは注目に値するトコロだと思うんだな。

いわば「新治天の君」と言いたい訳ですよね。もしくは「准治天の君」。「准皇」とでも言えば良いでしょうか・・・。

既に支配者としてその実を備えていた将軍がここで遂にその名前も備えるにあたって、「公家公方」は終わりを告げてしまったのね。
これは天皇や朝廷の制度としても大きな変化だけど、武家の制度しても大きな変革がこの室町期におこってるんだね。
「京都にあることを必須の条件にした幕府」って意味もわかってもらえたかな?

ややこしいなぁ。なんでこう面倒な手続きを踏むんですかねぇ。外国とかってもっとわかり易いじゃないですか。

天皇制の難しさですよね。アレコレ言われてますけどどうやったって日本史から天皇は切り離せないんですよ。

コレをただ単に国民性とかそーゆーので片づけるってのもどうかな?って思うんだけど、難しいトコロだよ。
ここをどう定義するかってのは日本史を語る上で永遠のテーマな気がするな。

よろしくお願いします。

(^_^;)
まぁこうやって将軍とかを追ってくのもひとつの作業として必要だと思うのね。わたしが通史として日本史を見なきゃならないって口を酸っぱくして言ってるのもソコへ繋がってくワケなんだけどね。
鎌倉開府、この室町期の将軍、織豊時代、家康、幕末、そして終戦と、ターニングポイントにはいつも天皇が大きく関わってるじゃない?ひとつづつ丹念に見て行くことで何か見えて来るモノもあると思うよ。

で、この室町期にも大きな変革があったと。
それが「京都にある幕府」であり「公方」であったと、こう言う訳ですね。

よくまとめたねぇ。
ここで押さえるべきところは京都に幕府を開くことで天皇・朝廷の持つモノを将軍・幕府が手に入れてしまったってトコロなのね。
コレはこの後の室町のお話にも信長・秀吉・家康あたりにも繋がることなんで覚えておくようにね。

         
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