古代日本において多くの伝説を残す聖徳太子、天智、天武。
次第に神格化されて行った3人だがその伝説は律令体制確立の為に必要なモノであった。
天智崩御にまつわる逸話を紹介します。

■ ただ沓だけが残った

なんでコレが飛鳥の講義に入らないんです?

うーん、ちょっと話としては外れてるからね。こういうお話もあったんだよってことでこっちでご紹介しておこうかなーって思ってさ。

「沓」。これは「くつ」って読みます。まぁ靴と思ってもらっていいでしょうね。

それくらい読めますよ。わたしをバカにしてるでしょ?
で、それが残ったらどうだって言うんです?ってゆーか何の話なんです?

これは天智崩御の時の逸話なんだ。ハイ、晴田くん。

平安時代末期に成立した『扶桑略記』の中の一文ですね。それによりますと・・・
「12月3日に天智天皇は亡くなった。同月5日、大友皇子が即位して天皇となった。年齢は25歳であった。一説によると天智天皇は馬に乗って山階郷(やましなのさと)まで遠出したままついに帰って来なかったということである。林の中奥深く踏み入ってしまい、どこで亡くなったのかわからない。ただ履いていた沓が落ちていた場所を山陵とすることにした」
とありますね。

なんだか猫みたいだ(笑)

猫も死ぬ時は誰にも見つからないようなところへ行って人知れず死ぬって言うよね。村下は猫飼ったことないんでわかんないんだけど。

これは道教の思想が大きく影響してると思われます。

うん。神仙が行うとされてる尸解仙(しかいせん)のことでしょうね。

シカイセン

神仙ってーのはいわゆる仙人ね。
尸解仙って言うのは不老不死の術を体得した神仙が自分の肉体をきれいに消し去って昇天する技のことなの。

『扶桑略記』では天智は仙人だった、と言ってるワケですね。

一方『日本書紀』にも聖徳太子について似たようなお話が書いてあるね。ハイ、晴田くん。

『日本書紀』によれば「聖徳太子は片岡山のほとりで臥せていた飢え人に衣食を施したところ飢え人は数日後に亡くなった。」とあります。

死んじゃったらダメじゃん。何やってんだか。

それがですね、太子はその人の為に墓を作って埋葬させたんですよ。でも数日後突然「あの人はただ者ではないから墓をあばいて見てみるがいい」って言い出すんです。そこで墓をあけてみると棺の中は空っぽで太子が与えた衣服だけがたたんで置いてあったって言うんですね。

あ、尸解仙だ。

そうです。
当時の人はその飢え人もただ者ではなかったように、それを見抜いた太子もまたただ者でないと讃えたということです。

と言うことは太子も尸解仙を行える仙人だった、と?

そうだね。聖徳太子も天智天皇も神仙だったと、こう主張したいワケだ。

結構村下センセって二人に厳しいんですよねぇ、なんか恨みでもあるんですか?

いやいや、そういう事じゃなくって、この逸話には結構大事な意味合いが隠されてると見たいのね。

「古代人は仙人だった!」

さぶっ!

わたしも盛り上げようと頑張ってるのに・・・。

あはは。
−−−まぁとにかく『扶桑略記』って平安時代の作なんだけど、この逸話っていわば伝説的なお話でお話自体はもっと前からあったんだよね。形作られたのは奈良時代になるのかな?
一方、『日本書紀』の成立ってのも天武期なのね。まぁ厳密に言えば当時天武はもう死んじゃってるんだけど。

何が言いたいのかよくわかりませんが・・・。

一体この手の逸話は何が目的なのか?
これは律令の成立とも密接な関係があるんだけど、目指すモノは「皇太子教育」それ1本。

そう言えば聖徳太子は皇太子だったと言うことですし、天智も天皇としてより皇太子・中大兄皇子としての印象が強いですもんね。

村下ゼミでは皇太子の制度は当時まだ成立してなかったと主張してますけどね。

古代から次期後継者の選定・争いに明け暮れていたっていう事実がある。
自身もその中にあってなんとか安定した皇位継承を行っていきたいと考えていた天武・持統とかそのあたりの指導者達が考え出したのが皇太子の制度なんだけど、できたばっかりで皇太子って言うモノがいかなるモノであるかが当の皇太子本人や支配者層の中でもはっきりしてなかったのね。

『日本書紀』成立時にはまだ皇太子って言っても珂瑠皇子(即位して文武天皇)と首皇子(即位して聖武天皇)の2人しかいなかった訳ですからね。

特に首皇子については珂瑠皇子が即位したのと同じ年齢(15歳)になっても「まだあまりにも幼い」って理由で見送られた経緯もあるんだ。
『日本書紀』とはこの首皇子の為に皇太子と言うモノを如何に具体的に提示してあげるか、ここに重点が置かれて書かれてると見ていいと思うんだよね。

聖徳太子も天智も皇太子の理想像とされた訳ですね。

そう。不思議なお話も「皇太子っていうのはこんなに立派だったんですよ。あなたもこうなるように頑張るのよ。」って感じだな。

後に聖武天皇が仏教に深くのめり込んで行くのは幼い頃のトラウマもありそーだな。

でもそれってあながち間違ってないカモよ(笑)。
あとついでにもうひとつ、これは「皇太子」と「律令」と『日本書紀』に代表される「歴史書」が関わりあってるってお話なんだけど・・・。

関わり?

理想とする「皇太子」は「律令」を編纂し現世統治の根本へ関わる、そして「歴史書」を編纂することで歴史そのものも司るって考え方。
とりあえずひとつずつ見て行きましょうか、ハイ、晴田くん。

まず聖徳太子。彼は推古天皇の皇太子ってことになってますね。律令的なお話としては有名な「十七条憲法」ですか。「歴史書」は『天皇記』『国記』編纂が有名ですね。

実態はぜ〜んぶアヤシイんだけどね(笑)
まぁこれって本当の歴史がどうだったかじゃなくって、あくまでも首皇子教育目的の『日本書紀』の記述なんだからそれで良いとしましょう。
で、次。天智。

中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子ってことになってます。

実際は違うケドね。ちょっとクドかったか?でも何度も言っておかないとね。

そして皇太子による律令編纂ってことで・・・。

あ、近江令でしょ?へへ〜、ちゃんと習ったもんね〜。

う〜ん・・・この場合は「改新の詔」がソレにあたるんだと思います。

え〜、「律令」と「改新の詔」とは違うモノに思えるんですけどー。

イヤ、ポイントしては「改新の詔」だな。
と言うのもコレが出されたとされているのは中大兄立太子の翌年なんだよ。内容についても大宝律令の条文で大幅に修飾されてるところを見ると、「改新の詔」は中大兄による律令編纂として考えられていた(日本書紀関係者たちが)と見るべきだね。

そういう方面から考えると大化改新が中大兄皇子主導で行われたって主張も筋が通ってると言えば通ってると言えるのか。

そうね。でも考え方が単純だからこうやって後世になってツッコミどころ満載ってワケよ。

その大化改新、乙巳の変の時、蘇我蝦夷邸から『国記』が運び出されて中大兄皇子へ献上されています。

これは歴史書の編纂を彼が継承したことを意味して書かれてるんだ。

首皇子には「あなたも皇太子としてそういう立派なことをやるんですよ」って教えているんですね。

立派な天皇になる為にはこういう偉大な先人達と同じことをやるのですよ、と。

プレッシャーだなぁ。

実際大宝・養老律令や『日本書紀』が同じ時期に成立してるのはこういう側面もあるワケ。
もちろん国家統治での意味合いも大きいんだけど、ある一面としてはこういう目的も無視できない重要な成立要因ではあるのね。

仙人にはなれないと思うケド(笑)

生々しい人間像を出してしまうと教育しにくいってのもあるからさ。

ちょっと同情しちゃいますね、聖武には。

    
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