1月

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1月1日   

1月2日
  ▼グラナダ占領(1492)
  月面第1の都市ではなくイベリア半島にある地域。オスマン・トルコ軍(イスラム教)による侵出に業を煮やしたスペイン内で盛り上がったレコンキスタの運動はこのグラナダ占領によって一応の終わりを見せます。同時にこの時期こそスペインとハプスブルグ家の絶頂期であった訳で、動機付けってのが如何に大事かって言うのがよくわかる。この時期の欧州はとってもわかり辛いので(欧州はいつでもそうなんですが)時系列で各国の動きをまとめておかないとワケわかんなくなりますので手を抜かずやること>受験生諸君
  ▼旅順開城(1905)
  日露戦争最大の激戦と言われた旅順攻略戦。指揮するは乃木希典。両軍ともにお互いの勇敢さをたたえ合った武士道と騎士道の象徴みたいな感じに捉えられたりしている。戦争に潔いもへったくれもなく、ただただ勝てば正義なのは原爆投下や日ソ中立条約の一方的な破棄でも分かる通り。
約半年後の日本海海戦を経て両国は講和に入るんですが、ロシアは内政で革命の危険が高まってて対外戦に力を割く余裕がなかったと言うのもあったり。でもこの日本の旅順接収は大陸への足がかりとして大きなポイントとなっているのと、陸軍の意識高揚に大いに役立っているのは押さえておきたいところ。ただこの意識が間違った方向に行ってしまったのが問題。件の乃木大将が明治天皇崩御にあたって殉死してしまったのも痛かった。殉死するくらい意識ある人にきっちり陸軍教育をして欲しかったものです。
  ▼バチスタ政権崩壊(1959)
  バチスタ政権とは革命前のキューバを支配していた親米政権。前々日(12/31)にキューバ革命軍との戦いに破れ、前日(1/1)にドミニカへバチスタン将軍が亡命するに至って遂に革命軍の勝利が決定する。その後首都バハマへ入ったカストロ将軍は首相へ就任して農業改革や米資本の接収・国営化へ入っていきます。また社会主義を宣言してソ連との連携を深めて行くのですが、キューバ革命は既存の共産党に指導されない独自の革命であったことから南米諸国の革命運動に多大な影響を与えた模様。「持たざる国」が大国に対抗して行くためには全体主義に向かうのはやむを得ないお話であって、独裁者による国家主義が時代によってどう見られるかの違いだけだったり。ナチスやファシスト党、大政翼賛会とこれらの革命政府や中国やソ連の共産党の一体何が違うと言うの?って感じ。

1月3日
  ▼豊臣秀吉、伏見城を築く(1594)
  このお城が建ってるのが京都の桃山ってところ。安土桃山時代の桃山と言うのはここから来てるんですね。今は明治天皇御陵となってますが、元々は伏見城ってのがあったのです。
秀吉のイメージは大坂城って感じですが、晩年の秀吉が居城にしたのはこの伏見城。死んだのも大坂城ではなくココ。その後伏見城には家康が入り、大坂城の前田利家との二頭政治が始まるのですが両者の仲が険悪になって(これは家康の策略なんですが)利家が秀頼を大坂城に移すことになるんですね。後はみなさんご存じの通り(←手抜きしたな)。
  ▼ツタンカーメン王の墓を発見(1922)
  9歳で即位したツタンカーメン王。近年の研究では頭部に殴打による損傷があったとか。先代が強行した宗教改革がかなり反発をくらったらしく、宮廷クーデタによる暗殺説が俄然真実味を増している。兎にも角にも荒らされまくりだったエジプト王墓がここまで完全に見つかったことで世界は大騒ぎになった。ツタンカーメン王墓は他の王墓とは明らかにその規模からして小さいモノで、そのショボさが逆に幸いしたんだけども、それでこれだけの副葬品と言うことはW大の教授が躍起になってアレコレやってるのも頷ける話だったり。
ミイラが納めらた棺一杯に、王妃アンケセンアメンが捧げたヤグルマソウの花束が敷き詰められてたってあたりは一服の清涼剤風味。
ちなみにエジプトのピラミッドについては研究室でやる予定でございます。
  ▼米、アラスカを49番目の州に編入(1959)
  アラスカはロシア領だったモノがアメリカへ売却されたってのは有名なお話ですが、当時ロシアはトルコとクリミア戦争に突入してて南下政策に挫折してたのです。戦後の疲弊に乗じてイギリスにアラスカを奪われることを憂慮してアメリカに譲渡を提案したんですね。売却額はなんと720万ドル。当時は米よりも英の脅威の方が大きかったと言うのがよくわかりますね。
時のアメリカ国務長官ウィリアム・スワードは「巨大な冷蔵庫を買った男」と国内で大非難にさらされたんですが、ここを米が押さえた意味は果てしなく大きかったりします。
  ▼米露が「第二次戦略兵器削減条約」(START II)に調印(1993)
  調印したのはアメリカ・ブッシュ大統領とロシア・エリツィン大統領。1991年に米・旧ソ連が調印したSTART Iでは、戦略核弾頭の上限を制限するとともに、史上初めて戦略核兵器の削減を行うことを約束したって言う画期的なモノだった訳だけど、START IIはこれを更に発展させて2003年までに二段階に分けて戦略兵器の弾頭数を三分の一の3000ないし3500発にまで削減しようとするもの。まぁロシアは調印したけどなかなか批准しなかったんだけど。これは米の戦略弾道ミサイル迎撃システムをなんとか牽制したいって言うロシア側の思惑がかなりあって、老朽化した兵器の維持があらゆる面で困難なロシアとしては放っておいても削減せざるを得ないのに米だけに突っ走らせる訳にはいかないってあたりの駆け引きな訳ですね。
でも一番批准したかったのは実はロシアだったと言う。

1月4日  

1月5日
  ▼大友皇子が太政大臣となる(671)
  この太政大臣は律令で言うところの最高位の官職と言うよりも、皇太子の前身と見る方が正しい。皇位を争った天智としては皇位の安定ってのは必須の課題だった訳で。ただこれは大海人皇子系の血統を絶やそうなどど言う感覚ではなく、天智としては大海人の血統との混合によって絶対的な安定を試みようとしていたことが伺われたり。
このあたりとか壬申の乱周辺は研究室でもちょっと触れましたが本講義の方でもきっちりやるつもりです。
  ▼ドイツ労働者党(のちのナチス)結成(1919)
  11月革命によって誕生したワイマール共和国の急進左派の動きの反動として誕生した右派党。ヒトラーはそもそも共和国側の軍にいてナチスの調査に行っていたところを当時の党首によって勧誘、加入に至ったとか。ヒトラーの加入・党内の掌握と彼のその圧倒的カリスマ性を牽引力として一気に躍進するんですが、これには当時のワイマール共和国が革命の時の軍人や右派学生による反革命運動をヒトラーが巧みにナチスと結びつけていたところを見逃してはなりません。またベルサイユ条約とそれを受諾した共和国への国民の反発を的確に捉えて党の攻撃材料にした点も大事。なんにせよ大恐慌の中でナショナリズムが出てくるのは必然も必然、大必然な訳で、「持たざる国」が進む方向もひとつしかなかったりします。豊富な資源や植民地を持つ国とは事情が違うんだよ、と。
そしてナチスを第1党にしたのはドイツ国民だってことを忘れてはいけない。ヒトラーは突然現れて独裁を敷いたんじゃなくって、ちゃんとシステムに則って権力を手にしたのです。ドイツはそれがよくわかっている。日本は未だにそこがちゃんと認識できてないのが問題なのです。

1月6日
  ▼ウェゲナー、「大陸移動説」を発表(1912)
  ドイツの地球物理学者ウェゲナーが現在いくつかに分かれている大陸はかつては単一の巨大な大陸であり、これが分割・移動して今のような配置になったと言う「大陸移動説」を発表。ただ当時はこの原動力が何に依る物かを解明することができなくって学会では受け入れられなかった。
でも第二次大戦後に磁極の移動を研究する古磁気学の面から、かつての磁極分布を元にすると現在の大陸は、互いに位置を変えて移動していたという考えがあてはまることが証明されます。ここに海洋底拡大説が加わり、現在では大陸移動説はほぼ定説として認知されるまでになってるのは周知の通り。
原動力はマントルの熱対流。大雑把に言えば、海洋底が中央海嶺からわき出して海溝からマントルの中へ沈み込むと言う流れ。この一連の動きで陸地にも影響が出ると思えば良いかと。溶岩が湧き出て固まって、また海の奥底へ沈んで溶岩になる、まぁぐるぐる回ってると、そう言うことです。(こんな説明で良いのか?)
このマントル対流というのは地震の発生メカニズムとも関わってきてたり。地震予知なんかできやしないんだけどね。
  ▼F・ルーズベルト大統領「4つの自由」演説(1941)
  4つの自由とは「言論の自由」、「信仰の自由」、「恐怖からの自由」、「欠乏からの自由」のこと。もちろん標的にしたのは全体主義国家であるドイツであり日本だった訳です。ルーズベルトはこの理念に基づき同年、英首相チャーチルと「大西洋憲章」を発表。軍事的な面はもとより思想的な面でも対枢軸への地固めを着々とやっていきます。
当時日本は大東亜共栄圏と言うアジア主体の思想を全面に押し出した訳だけど、戦場にされてるアジアの国々がどっちに着くかってのは言わずもがななんですよねぇ。
まぁそもそもこれに限ったことじゃないんだけど、アメリカのお節介なところは、自分たちの言うことは世界じゅう至る所で、それこそ過去から未来永劫にわたり永久不変であると言いたげなところだったり。帝国主義を全面に押し出して世界中の資源を押さえた米英仏に対して、新興国ドイツや日本がそれらの国に並ぼうとすれば全体主義へ行かざるを得ないのは自明の理なんだけどねぇ。もちろん米英が自国の権益を守ろうとするのも当たり前で、そのために世界を巻き込む手腕?に日独は対応しきれなかったってだけだったりするんだけども。
  ▼外国人力士が初の幕内昇進(1968) 
  日本相撲協会が高見山の入幕を許可したことで実現。その後の小錦、曙などの外国人力士の活躍に道を開いたと言われてます。高見山は金星はいっぱい取ってたみたいだけど、これはまぁご機嫌取りみたいなもので(←良いのか?)本割りでの彼はそんなに強くなかったから協会にとってはある意味どうでも良かった訳ですね。
まさか今のような上位陣を外国人が占めるなんていう状況なんか思いも寄らなかったことでしょう。

1月7日  

1月8日
  ▼桜田門事件(1932)
  桜田門外の変ではなく桜田門事件。桜田門外でおこった朝鮮人、李奉昌による天皇爆殺未遂事件の事。韓国臨時革命政府を名乗る過激派によって手榴弾を投げられたのですがよくもまぁご無事だったことで。これが成功していたら日本と朝鮮の関係は今よりもっと悪くなってたような気が。
天皇を殺せばどうかなると思ってるあたりが根本的に何もわかっていないという証拠。
  ▼平成に改元(1989)
  平成元年は1月8日からスタート。1月7日までは昭和。よって昭和64年はたった7日しかない。「平成」は最初の年号と言われてる「大化」から数えて247番目の元号。ナント、初めて政令によって定められた元号だったりする。「平成」の出典は「史記」の「内平らかに外成る」と、「書経」の「地平らかに天成る」より。

1月9日
  ▼坂上田村麻呂に胆沢城築城命令下る(802)
  797年に征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂。いよいよ「東北大戦争」とも言われた大和朝廷vs蝦夷、最大の戦いが始まります。この胆沢の地ってのは律令政府の攻撃目標でもあり、阿弖流為(アテルイ)、母礼(モレ)を中心とした陸奥国最大の蝦夷勢力の拠点でもあったのです。それが801年(延暦20)に阿弖流為が投降(京都へ送られ処刑)したことによって胆沢の地は大和朝廷の支配下に入ることに。ただ築城とは言うものの、実はまだこの時は”城”とは言うよりも野営陣的なモノでしかなく、城の形態になるのはもう少し時代を下りねばならなかったりもするんですけどね。城の形態を成してからは鎮守府もここへ移され、多賀城と並ぶ東北経営の拠点となるに至ります。10世紀になると官衙(政庁の東にあったので東方官衙と呼ばれてる)が政庁を凌ぐ規模になっちゃうあたりが軍事拠点としての性格を色濃く反映してますですね。
  ▼明治天皇即位(1867)
  孝明天皇の突然の死によって第2皇子の睦仁親王が16歳で即位。孝明天皇の急死もアヤシサ爆発ですが、実はこの睦仁親王即位もまたアヤシサ満点。明治天皇の正妻である昭憲皇太后はなぜ皇后ではなく皇太后なのか?各種文献にある睦仁親王と明治天皇との整合性は?一連の疑問を解き明かすことで明治維新の本当の姿が見えてくるはず。これは講義でやろうと思ってるネタですのでこれ以上は触れないでおきます。

1月10日
  ▼上杉禅秀の乱、鎮圧(1417) 
  関東公方足利持氏が常陸国人の小田氏の犯したちょっとした罪に対し、領地没収をしようとしたことに対して、関東管領上杉禅秀が関東管領職辞任をチラつかせながら翻意を迫ったんだけども持氏はその辞任を許して禅秀のライバル上杉憲基を関東管領に就けてしまう。禅秀が目障りだったんでしょうねぇ、きっと。禅秀は持氏の叔父にあたる足利満隆と結んで約1年の準備期間の後、遂に挙兵します。
まぁこれだけなら鎌倉府の内紛ってことになるんだけど、4代将軍義持の弟、足利義嗣から禅秀に挙兵を勧める密書が送られていたことが発覚。その中に将軍位を奪う計画も書かれていたので京都も巻き込む大問題になっちゃいます。
さて当の反乱。当初こそ禅秀・満隆連合軍優勢で持氏・憲基は敗走してしまうんですが、義嗣の将軍簒奪計画発覚によって幕府が動き出します。義嗣は捕らえられ処刑、禅秀討伐も越後の上杉房方、駿河の今川範政、信濃の小笠原政康に命じて一気に鎮圧にかかっちゃう。最終的には今川軍の猛攻を受け鎌倉自邸で禅秀は自害、反乱からわずか3カ月鎮圧となった訳だけど、乱後に将軍持氏は禅秀と関係の深い勢力を徹底弾圧していきます。これが鎌倉府も含めて幕府と在野の武士たちとの間に大きな禍根を残すこととなるんですね。
  ▼国際連盟発足(1920)
  言いだしっぺのアメリカは議会の賛成を得られずベルサイユ条約を批准しなかった。「当時の」アメリカはモンロー主義って言って他国への内政不干渉を貫こうって考えが主流だったんですね。国際連盟はベルサイユ条約に基づく組織なだけに当然のことながら国際連盟にもアメリカは不参加。ただ国際的な会議に何も参加しなかったかと言うとそうでもなくってこれが結構積極的に参加してたりする。日本は常任理事国だったんだけど、国際連盟の常任理事国は国際連合のそれとは違って拒否権を持たない。ってゆーか国際連盟の議決は全会一致を以て成立するから常任理事国だからどうのこうのってのはあまりない。当初の常任理事国は英・仏・伊・日の4カ国。後にドイツとソ連も常任理事国として加盟するんだけどご存知の通り日独伊は相次いで脱退するし、ソ連もフィンランド侵攻によって除名させられちゃう。第二次大戦の主要国が揃っていないんじゃお話にもなりませんわな。
「集団安全保障・集団的自衛権」の概念が形成されてきたのがこの頃。似てるようで結構違うこの二つの言葉。実は憲法改正とはここを突破するため、その1点のみで論じられてるようなモノだったりします。機会があれば講義でやってみたいネタですね。

1月11日
  ▼マホメット、メッカに無血入城(630)
  元々マホメットは生まれ故郷のメッカを中心に布教活動をしていたんだけど、彼を庇護していた人物の死によって迫害されるようになっちゃう。しゃーないなってことでメジナに本拠を移して(これをヒジュラと言います)ここを本拠としてイスラム教団国家建設に邁進するのです。「アッラーの名のもとに」戦闘的布教活動を通してこの日遂にメッカを占領、ほどなく全アラビアを統一するに至ります。
「イスラム」とは「神に帰依すること」を意味し、信仰の中心にはアッラー・天使・預言者・啓典・最後の審判があります。この預言者ってのがマホメットなんですね。あくまでもマホメットは「預言者・神の使徒」であって「父と子の精霊」って言う三位一体論のキリスト教と大きく異なる点がココ。
その他、アッラーはイスラム教の規定する唯一神、天使はガブリエルって言ってメジナとメッカでマホメットにアッラーの啓示を伝えた人(人じゃないけど)、啓典はイスラム教唯一の教典である「コーラン」(実は新・旧約聖書と類似点が多かったりする)、最後の審判と言うのは死後に受けるアッラーによる裁きの事。でもこれは「カダル」と言って生涯アッラーに帰依し戒律を厳しく守っていればアッラーがそれを認めてくれて最後の審判に影響することもあるって信じられてるのです。イスラム教徒は自らをムスリムと呼ぶんですが、ムスリムはアッラーの前では等しく平等であるとされてます。現世と来世を巧みに取り入れた宗教だな、と感心させられちゃいますですね。そりゃ世界三大宗教にもなるわ、みたいな。
いろんな報道なり歴史なりを見てきてひとつ疑問に思うことはありませんですか?どの宗教にも居て、時には政治にまでちょっかいを出してくるあの職種の人。そう、イスラム教は全ての使徒はアッラーに直接帰依するべきと言う考えがあって、聖職者を持たないんです。モスクの映像を見てても巡礼の様子を見ててもみんな思い思いにお祈りしてますもんね。僧侶や神主を見慣れたわたしたちが、キリスト教には感じない何か異質な物をイスラム教に感じるのはその辺りにあるのかもしれませんですね。インシャラ〜
  ▼太平天国の乱起こる(1851)
  原始キリスト教の影響を受けた洪秀全が組織した秘密結社「拝上帝会」は、この日「太平天国」の国号を定め広西省で蜂起。公然と清朝打倒の運動を開始します。揚子江流域を中心に展開された革命運動は1853年、遂に南京を占領して国都(天京)とするに至ります。社会の資料集で勢力圏を図示してたのを思い出すとこの太平天国、かなりの版図を誇ってましたよね。アヘン戦争で動揺する清朝は独自でこの乱を収めることができず、常勝軍と呼ばれる傭兵などに頼って1864年、ようやく南京を占領して反乱鎮圧に成功します。
太平天国は人間の平等・男女の平等・土地、財産の共有と均分を唱え、土地財産の公有・平均化を目指した「天朝田畝制度」を全ての基本にして各種の制度が構想されてました。でも今更均田制じゃあるまいし的な理想主義でしかなく実際にはほとんど機能しなかった。洪秀全も南京占領後は政治から離れてしまって、元々が洪秀全のカリスマと理念に支えられた勢力だっただけにその両輪が消えてしまうともはや待ってるのは滅亡のみだった・・・と。
この後、清朝は日清戦争・義和団の乱を経て「滅満興漢」の運動が起こり、辛亥革命へと雪崩れ込んでいきます。実は中国って同じ事の繰り返しをやってるって知ってましたか?

1月12日  

1月13日  

1月14日  

1月15日  

1月16日  

1月17日  

1月18日  

1月19日  

1月20日  

1月21日  

1月22日
  ▼英、ビクトリア女王死去に伴いエドワード7世が王位継承(1901)
  今のエリザベス2世に直結するいわゆる「ウインザー朝」はこのエドワード7世から始まる。カクテルのアレキサンダーは彼と王妃アレキサンドラとの婚礼を記念して捧げられたとか。あまり美味しくないけど。
  ▼米、コロンビアとヘイエラン条約調印(1903)
  これによって米はパナマ運河の租借権を獲得します。未だにスエズ運河が最重要ポイントとなってるところからもわかる通り、東海岸から太平洋へ出るこの重要なポイントを押さえたのはかなり大きな出来事だったり。コロンビア議会では否決されたけど既に批准した条約をアレコレ言うのもおかしな話な訳で。
  ▼海王星が冥王星の軌道をまたぎ太陽系の一番外側の惑星になる(1979)
  1999年に再び冥王星が外側になっています。同じ太陽系とは言うもののあまりにも遠くにありすぎていまいちよくわかっていない両星。軌道が交差することで衝突するんじゃないか?と思ってしまいがちなんだけど両星は3:2の共鳴で結びついていて冥王星の周期は海王星の1.5倍になってる。よって両星は衝突しないんですねぇ、奥が深いですねぇ。
このコラムを書いた時に冥王星はまごう事なき惑星だったにも関わらず、既にエッジワース・カイパーベルト天体での大きな物って説を取り上げてるわたし。やるなぁ(笑)

1月23日  

1月24日  

1月25日  

1月26日  

1月27日
  ▼源実朝、甥の公暁により暗殺される(1219)
  武家政権の草創期、その棟梁ってのは大抵が武断的性格持つモノなんですが、やっぱり平安時代の名残とでも言うか頼朝の段階で既に源氏の嫡流は武士って言うよりも貴族風味だった訳です。しかしながら時代が求めるのはそうじゃなかった。頼朝はそれを補って余りあるカリスマ性があったんですが、一種頼家の反動とも見える実朝の貴族化は幕府の支配者層には不安に見えたんですかねぇ。
これによって源氏の嫡流は断絶となります。ま、何が嫡流なのかは考え方次第だったりもするんですが。
  ▼新田義貞、京都奪回(1336)
  新田と言うよりもこれは北畠顕家や楠木正成のおかげだったり。足利尊氏はここで敗れて九州へ向かいます。九州で再起の体勢を整えるまでの間、いかにして山陽・四国を守るかと言うことで尊氏は鎌倉幕府の守護体制、それも北条氏の集権化以前の基本体制に復帰することをスローガンに掲げたんですが、これが後の室町幕府の守護体制の原型ともなるんですね。転んでもタダじゃ起きないって言うか逆境を逆に利用するなんてあたりは尊氏もなかなかしたたか。猪木風味。
  ▼ソ連、共産党大会でフルシチョフ第一書記がICBMの量産体制に入ったと報告(1959)
  ICBMとは大陸間弾導弾のこと。この数年前から始まっていた米ソの宇宙開発が何に繋がっているかと言えば間違いなくICBMの開発にあった訳で。フルシチョフはスターリン批判なんかで比較的米との緊張緩和を目指してた風味もあるんだけど、この時期はベルリン封鎖に代表されるように冷戦下でもかなり緊張度が高く、それはキューバ危機で最高潮に達するのです。
ただいくらこういう演説をしても米はソ連軍はICBMをほとんど実戦配備していないことを把握してた。だから米本土への直接攻撃を仕掛けることのできるキューバの親ソ化はどうしても避けたかったんですね。
おそらく、世界滅亡に一番近かったのがキューバ危機。機会があればお話したいですねぇ。

1月28日  

1月29日
  ▼藤原道長、摂政に就任(1016)
  ここが藤原氏の絶頂期と言われています。んで、政治が安定すれば文化が育つのが必定ってことで、この時期源氏物語に代表される宮廷文化の華が咲くのであります。
  ▼日韓併合に反対する韓国人が平安道で日本人10人余を殺害(1910)
  いつの世でもそうなんですが、ただ憎む国の国民ってだけで何の関係もない人を殺したからと言ってどうなる訳でもなく。また一方でやり場のない怒りみたいなモノのスケープゴートみたいな面もあったり。日韓併合はただ日本の権益だけ考えて行われたものではないんだけど、そもそも人の言うことには聞く耳持たない人たちには届きますまい。そしてこの時期の一地方の住人にそんなことまでわかるような環境がある訳でも無いし。ま、今の半島の状況を考えるとこの先も変わらないような気がしないでもないんだけど。
  ▼GHQ、樺太及び千島列島がソ連領とのヤルタ秘密協定を発表(1946)
  北方領土問題って言うのは千島列島がどこまでを指すかが問題になってるだけです。"日本列島"ってどこからどこまでなんだ?みたいな。建前で言えば日本の主張はばっちり筋が通ってる。ヤルタ協定そのものにケチつけてる訳じゃなくって、中立条約の一方的な破棄とか火事場泥棒だとか感情的にひっかかるところはあるにせよ負けちゃったんだからソレはソレとして受け入れた上でのお話ですよ、と。
ま、ナンダカンダ言おうとも「力こそ正義、良い時代になったものだな」状態。昔からそうだしきっと将来も同じ。国際社会ででかい顔したいなら実力持つしかないんだな、コレが。お金配ってるだけじゃなくってそれも武器にしなきゃ。

 1月30日  
  ▼足利義昭が信長討伐のために挙兵(1573)
  武田信玄や朝倉・浅井連合、本願寺などなど信長包囲網が良いところまで信長を追いつめてたのは確か。その上家康の失策でもはや四面楚歌だった信長。武田信玄の死はまさに晴天の霹靂だったことでしょう。こうなったらもう信長のもの。この義昭の挙兵も追いつめられたあげくの行動で余裕を持って対応できてた模様。これによって義昭は京都を追放。足利家は後継者を立てることもできずここに足利幕府は滅びるのです。
  ▼日英同盟協約、ロンドンで調印。即日実施(1902)
  ロシアの脅威がこの奇跡とも思えるような同盟を可能にした。極東の弱小国日本が"グレートブリテン"と同盟を組む、このインパクトは絶大だった模様。英はともかくとして当時の日本にとってこの同盟の意義はとてつもなく大きい。逆に言えば日英同盟破棄こそ転落の第一歩だったんですね。
  ▼独、ヒトラー内閣成立(1933)
  民衆の圧倒的支持を受け第1党へ躍進したナチス。ヒトラーはその党首としてヒンデンブルグ大統領より首相に任命されます(後にその大統領さえも兼任する)。実質「総統」って議会民主制や大統領制を利用した皇帝みたいなモノで、厄介なのがそれは「国民の総意」だったりするところにあるんですね。
  ▼米州機構がキューバの除名を決議(1962)
  これによってキューバ危機が更に加速する。元々キューバはソ連寄りだったってのではなく、米との対立みたいなところからソ連寄りになっただけで、キューバはキューバで独自の社会主義を標榜してたりもした。でもまぁ大国アメリカの近くで独自の道を進もうとするにはそれなりの後ろ盾が要る訳で。やっぱソ連の手助け無しには・・・ってゆーのがあったり。返す返すもソ連のTOPがフルシチョフで良かったと思う次第。ちょっと時期がズレてスターリンだったりブレジネフだったりしたら確実に世界は終わってる。歴史の妙ってところでしょうか。
  ▼藤子不ニ雄がコンビを解消(1988)
  解消後は藤子F不二雄と藤子不二雄A。もっとも、ホントに合作していたのは駆け出しの頃くらいで後は完全に別々にやってたのが実態。ドラえもんやパーマン、エスパー魔美あたりがFで、怪物くん、ハットリくん、笑ゥせぇるすまんあたりがA。(初期オバQはちょっと特殊なんですが説明が面倒なので割愛)
わたしはむかーしのAセンセが一番好きかな。フータくんとか面白いっす(リメイクはだめだめでしたが)。村下オススメ。

 1月31日  
  ▼スターリングラードでドイツがソ連に降伏(1943)
  そもそも三国同盟ってのは「防共協定」であって、その仮想敵国はソ連だった訳です。倒しておかねばならない相手はソ連。対英戦は早晩決着する(もちろん独の勝利で)、そして最終戦争の相手は米となると読んだヒトラーは後顧の憂いを断つべく先手を打ってソ連領内へ攻め込みます。広大な領土のソ連ですが実際のところ人が住める土地なんてのは限られてる訳で、レニングラードやスターリングラード、そしてモスクワと落とせば案外早くケリが付くと読んだとか読まないとか。しかし日本の対中戦のような点と線の攻防にすらならなかった。想像以上にソ連の国土は広くそして寒かった。歩兵が主体のこの頃の戦争、独軍最大の敵はやっぱ寒さだったのですね。
  ▼江川卓が阪神入団、巨人小林繁と即日トレード(1979)
  これが野球協約の隙間を突いた「空白の1日」。そこまでして巨人に入りたいのか?と思ったりもするけど、今も昔も巨人ブランドはやっぱ最強な訳で。プロ野球の巨人依存体質が変わらない内はこんなヤリ口もナベツネ氏の大口を塞ぐ手だてもありますまい。構造上改革なんてできやしないけど。
「作新学院の江川」がすんなり巨人に入れていたら・・・と悔しがる巨人ファンは多い。
  ▼ジャイアント馬場、死去(1999)
  享年61歳。もっとおじいちゃんだと思ってました。全日本プロレスは会社組織にこそなっていたけど、あらゆる権利関係は馬場夫妻が握っていたことが三沢一派による全日離脱・ノア旗揚げ、武藤敬司の移籍、離脱などお家騒動がある度に発覚してる。ベルトの使用権って、建前上ベルトは管理組織(全日の場合はPWF)のものなんじゃないの?みたいな。

 

    
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