2月

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2月1日   
  ▼フランス国民公会がイギリス・オランダに宣戦布告(1793)
  時期的に「ベルばら」のお話の直後あたりでしょうか。オスカルも良いけどアントワネットも良いですよね(そんな説明いらない)。
フランス革命戦争は比較的好意的に見ていたイギリスでしたがルイ16世の処刑を機に国交を断絶。仏周辺国と大同盟を組みます。これに対して仏はイギリスへ宣戦して既に開戦していた国々を含め欧州全体を敵に回すこととなります。ナポレオンの台頭はこの対仏大同盟との戦いからなんですが、如何に指導者が優れていたとしてもそれだけで軍隊が強くなる訳でもなく。このあたりはまた機会があれば・・・ってことで(笑)←長くなるのヨ。
要は愛国心と徴兵制です。
「ベルばら」知ってると結構取っつきやすい。わたしはそこから入りました。
  ▼カンボジアでクメールルージュが結成される(1948)
  大虐殺を行ったいわゆるポルポト派って言われる集団の前身とでも申しましょうか。とは言うものの、シアヌーク国王(当時)もポルポト政権ではカタチだけとは言うものの大統領だったし、フンセン派だってクメールルージュ出身者は沢山いる。いわばカンボジア混乱の元凶みたいなモノ。しかしクメールルージュだけを非難できるものでもなく、反ソ、反ベトナムのアメリカに振り回された風味濃厚。
全ての責任をポルポトに押しつけてのうのうとしてるお偉いさん方だって同罪なんだけどなー。

2月2日
  ▼オットー大帝、ヨハネ12世より戴冠され、神聖ローマ帝国が成立(962)
  これより以降19世紀初頭までの800年間神聖ローマ帝国皇帝にはドイツ国王が就任するのが伝統となったのですが、これは天皇と将軍の関係と対比させてみると面白いカモ。
この教皇が国王を皇帝として任命すると言う一種の権力の二重構造化が、ヨーロッパとイギリスとの決定的な違いな訳で。国王に対する意識の違いはこのあたりに求めることができるでしょうね。
  ▼グアダルペイダルゴ条約調印。米墨戦争が終結(1848)
  これによってアメリカとメキシコの国境が確定します。ってゆーかニューメキシコ、カリフォルニア、ユタ、ネバダ、アリゾナを米が取ってホクホクって事なんですが。これって日本と無関係かっていうとそうではなくって黒船のペリー、実はこの黒船って元々メキシコ戦争の時に発注されたモノなんですね。でも完成した時にはもうメキシコ戦争は終わっちゃってた。北太平洋艦隊も太平洋艦隊も地中海艦隊もとりあえず今は軍艦なんていらないから、じゃあ一時的に他の目的に使おうってことで日本との条約を結ぶために東インド艦隊へ回されたと。必要以上に黒船が多かったのはこう言う事情があったからなのです。
  ▼島津斉彬、薩摩藩主に就任(1851)
  薩長ってのはかなり評価が高いんですが、これも勝者の歴史と言うのを忘れてはいけない。勝てば官軍。ただ斉彬はなかなかの名君だった模様。西郷隆盛を見いだしたのも彼だし。幕末は重要人物が急死する事が結構見受けられて彼もその中の一人。引退後も隠然として倒幕勢力内で指導力を発揮してる彼を見て心安からぬ人もきっといたことでしょう。時期が彼の上洛直前だったってのもポイント。

2月3日

2月4日  

2月5日
  ▼平清盛没(1181)
  1181年は治承5年。一説には5日でなくて4日ともいわれてる。玉葉によれば”頭風を病んだ”とある。頭風って言うのは頭痛のことなんだけど、この頭痛が普通の頭痛じゃないようで翌日には更に悪化。結局近づくと暑くてたまらないほどの高熱に冒されて「あつち死ぞし給ひ」てしまうのです。
清盛の死によって平氏の家督は清盛の三男にして平家物語で叩かれまくりの宗盛が相続。実際のところ義仲入京時に平氏は京都から撤退するんだけど、その時に後白河法皇を逃してしまうと言うその後を決定付けるかのような大失態を演じてしまう。平氏の貴族化が没落を招いたとよく言われてるけど、その象徴は彼なのかもしれませんですね。
そうそう、平氏でも平家でも別にどっちでも良いです。同じように源氏も源家って言ったって構わないんですよん。そろそろこの時代になると「氏」と言う広い範囲では語れなくなってきてますからねぇ。
  ▼インターポール創設(1923)
  正式名称を「国際刑事警察機構」と言う。International Criminal Police Organizationを略してICPOと言ってみたりINTERPOLと書いてインターポールと呼んだりします。これは各国警察が「現行法令の範囲内で」国際相互協力をやっていこうって言う目的で組織されたもの。ただこの組織、強制捜査権や逮捕権は持ってなくてもっぱら刑事事件の調査や情報と資料の交換なんかが主な任務だったりする。
本部はフランス。ICPO本部はフランスから各国大使館並の外交特権を与えられてて治外法権が確立している。またタイやアルゼンチンなどにもICPOは直属の下部組織を持つんだけど、そこも国家から同様の特権を与えられている。このように警察組織ってのは基本的に制約を付けられないのが本来の姿。だからこそ必要以上のモラルが求められるんですね。「警官だって人間なんだ」なんて見当違いも良いところなんだな。
このICPO、最近ではコンピュータウイルスについて警告を発信したりなんかも。そりゃ大事なことだとは思うけど天下のインターポールがそんなことしなくても・・・

2月6日
  ▼ニュージーランド北島のマオリ族と英・女王代理との間でワイタンギ条約締結(1840)
  この条約によってNZの主権はイギリスにあることが確認され、マオリによる土地の売却は英政府へのみとした上でマオリは今後英国民としての権利を認められることとなります。ただこの後増加し続ける英からの移民とマオリとの間でいざこざが絶えず、最終的には内戦にまで発展してしまう。この戦争と第一次大戦あたりを契機にしてどんどん近代化が押し進められて行きます。近年、英連邦も崩壊へ向けて秒読み段階って感じですが、NZも例外ではなく。ま、元首にエリザベスを戴いてるからって別に何があるって訳でも無いんですけどね。英連邦自体、存在意義を見いだせないからこそわたしなんか逆に残しておいても良いんじゃない?みたいなことも思ってしまうんだけどな。
  ▼米上院でロッキード社が日本政府高官への現金贈与を証言(1976)
  これが戦後最大、あるいは日本史上最大の疑獄事件とまで言われるロッキード事件へ発展します。でもまぁ結局一部の政治家がいなくなって立花隆が世間に出てきたってのが総括かな、というところですが。
日商岩井の副社長だっけ?証人喚問で宣誓のサインをしようとしても手がふるえてなかなかできなかったってヤツ。ムラシタはVTRでしか見てないんですがあれは衝撃でしたねぇ。
  ▼カリフォルニア工科大学がブラックホールを発見(1979)
  一般相対性理論と重力場の方程式に対する厳密解の中にあるシュバルツシルト解がすなわちブラックホールとなります。…ってこれは日本語なのか?(笑)
具体的に言えば太陽の8倍以上の質量の星が超新星爆発した後にブラックホールができると。爆発したら普通外へ飛び散るだろう、とか思うんですが中心部は逆に内へ内へ収縮しちゃうんですね。んで、自分の重さをささえきれずにつぶれちゃう、これがブラックホール。このあたり感覚でわかり辛いんですよね、そう言う事象が周りに無いから。そうですね…例えて言うならば北斗神拳奥義幻穏壊って感じ?(←誰がわかるんだ?)
「全てを吸い込む」ブラックホールですが、その周辺ではブラックホールへ吸い込まれる作用に反応したエネルギーも放出されてるようです。ホーキングの理論ってのはこのあたりの事を展開させたものなんですが、一般相対性理論と量子力学の枠を越えた発想は世界中の科学者の度肝を抜いたモノでやっぱ天才は発想が違うんだなぁと思わせてくれたものです。

2月7日  
  ▼愛新覚羅溥儀生まれる(1906)
  清朝の宣統帝、ラストエンペラー、満州国執政(満州帝国皇帝)。ま、有名ですね。「ふぎ」と読んでますが「ぷい」と読むのがホントの読みに近い。東京裁判には証人として出廷。戦犯じゃない。傀儡だったとは言うもののそれは如何なものかと。

2月8日
  ▼チューリヒでキャバレー「ヴォルテール」開店。ダダイズム起こる(1916)
  一般的に言われてるダダイズムは形式を否定して個人を解放しようって運動。ま、当初は第一次大戦の影響もあってかどこか厭世的な根拠を持たない反合理主義ってだけの反芸術運動だったようですが、後にシュールレアリズムなんかに発展します。このあたりを指してモダニズムとか言ったり。この時期のモダン、80年代のポストモダンあたりと社会の関わりなんかを対比させてみると面白そう。卒論あたりで多くの人が取り上げてそうな気もするけど。
ちなみに太宰治って名前はこの「ダダイズム」から取ったもの。
太宰を人生のどの時期に読むかでその後の人間形成も変わる、なんて言われてたけどどうなんでしょう。わたしなんかはほとんど印象が無いんですが。(それも影響のひとつと言ってしまえばそうなんだけど)

2月9日

2月10日

2月11日

2月12日  

2月13日  

2月14日  
  ▼藤原時平が左大臣に、菅原道真が右大臣に就任(899)
  延喜・天暦の治とかって言われてますが実態は別に天皇親政が行われてた訳でもなく、微妙なパワーバランスの均衡によって藤原氏が「摂関になっていない」ってだけなんですね。実際摂関も太政大臣もいない廟堂において執政最高責任者は左大臣の時平となる訳で、別に何も変わりゃしないってのが実質。と言うか摂関がいることが常態だと思っちゃいけないのです。
  ▼平将門が平貞盛・藤原秀郷らに討たれる(940)
  これによって将門の乱は幕となるんですが、この後この3人って言うのは関東武士に多大な影響をもたらしてます。義家や頼朝の源氏、奥州藤原氏、北条氏だって足利氏だって新田氏だって、もっと言えば徳川だって、武門の長としての根元をココへ持ってきてる。
どこに源氏がいるの?と侮るなかれ。貞盛はばっちり源氏につながってます。
  ▼米コンピューター・タビュレーティング・レコーディング社が、インターナショナル・ビジネス・マシーンズ社に改称(1924)
  これがIBM。特に意味はありませんが村下が最初に買ったWindowsパソコンがIBM製(Aptiva)。これに懲りてメーカー製は二度と買うまいと誓ったのであります。「HAL」がIBMの一文字前のアルファベットを取っただけってのも有名ですね。
  ▼第20回ソ連共産党大会でフルシチョフ第一書記が演説(1956)
  これが有名なスターリン批判と呼ばれる演説。超カリスマ・スターリンよりも指導力を得るにはそうするしかなかったとも言える。ゴルバチョフもそうだけどタイミングってあるんですねぇ、みたいな。災い転じて福となす?米ソのホットラインができたのはキューバ危機のおかげだけどそれはソ連にフルシチョフがいたからに他ならない訳で。
  ▼中国・楼蘭で2200年前の少女のミイラを発見(1981)
  楼蘭ってのはあの新疆ウイグル自治区にある。中国・漢代にロプノール湖のほとりに栄えた都市国家と言われてるんだけども、やっぱシルクロードのオアシス国家の領域を出ることもなく、この湖が縮小していくに従って砂に埋もれていった模様。
当初報じられたところでは6740年前のモノって言われてたけども、そこはさすが中国ジャーナリズム。話半分でもまだ多かったりして今では2200年前のモノと言われてる。まぁ放射性炭素測定がどこまで信頼できるかってのはアヤシイところもあるんですけどね。
関係ないけど今の中華人民共和国は建国60年そこそこの新興国。中華民国との連続性すらない。何を都合の良いときだけ連続性を主張してんのよ!って感じ。

2月15日  

2月16日  

2月17日  

2月18日
  ▼法然、親鸞流罪となる(1207)
  法然と彼に師事した親鸞によって広められた浄土宗(後に親鸞は法然の教えを独自に解釈した浄土真宗を興す)。いつの時代でも分かり易さが拡散のキーワードな訳で、例に漏れず浄土宗もその徹底的な他力本願が民衆の圧倒的支持を受けた。ただ古い物が新しい物に反発するのはいわば定番。この時も既成の仏教宗派が大反発をおこした。大原談義でケチョンケチョン(死語)にされてるだけに逆ギレ度合いも大きかったと思われる。弟子と女官が密会したっていうのが罪状だけど、それがダメなら既成仏教の坊さんはとっくの昔に京都から追い出されてるってば。
流された先は法然が土佐、親鸞が越後。後に許されて法然は京都に帰るんだけど間もなく死んでしまう。法然の死を知った親鸞は越後に留まる決意をすることになるんだけど、これが室町から戦国にかけて大名を悩みに悩ませる一向宗(浄土真宗)の一大勢力圏をつくるきっかけになるんですね。何がどこでかかわってるかわかりませんですねぇ。
  ▼幕府、異国船打払令を出す(1825)
  18世紀末から日本近海に現れるようになった外国船。当初幕府は薪水供給令を出して大人しく帰ってもらうって方策を打ってた訳だけど、この年外国船を見たら打ち払い、日本に上陸した外国人は逮捕、もしくは射殺するよう命じちゃう。この命令が元になって「モリソン号事件」なんかが起こる訳だけど、アヘン戦争でいよいよ欧米がその触手を極東に向けるに至って遂に打払令を廃止、元の薪水供給令に戻った。圧倒的な攘夷の声とこれまた圧倒的な軍事力の差。おまけに鎖国って言う物に縛られて打つ手がないってのが正直なところだったと思われる。こんな状況で幕府も国防政策が貧弱だと言われるんだからやってられなかったことでしょうね。

2月19日  
  ▼藤原良房が太政大臣に就任(857)
  これが人臣初の太政大臣。太政大臣は適任者がいなければ即ち蕨くと言うことで「即蕨の官」と呼ばれてた。古く大友皇子の例に見られるように次期天皇候補であったり、皇太子や天皇へも見本たれ!的な風格もあった訳でちょっと特別な役職。それまでは皇族しか就任した事がなかったこの職に良房が就いたと言うことの意味、それは講義の方を参照よろしく(笑)
  ▼コペルニクス生まれる(1473)
  地動説の人。著書「天体の回転について」はある意味科学技術史上屈指の書物と言える。後のガリレオのようにキリスト教会をなるべく刺激しないようにしてたのは立派と言うかなんと言うか。ただ彼は天体の軌道は完全な円であるって考えからは抜け出せなかったので、天体の動きを説明するにはプトレマイオスの天動説と同じように複雑な計算を必要としてたりした。これについて楕円軌道であるってことを証明してコペルニクスの説を実証したのがケプラー。
実はこれこそがニュートン力学へ通じる大元であってそれは即ち相対性理論へつながる道だったりするのです。
りんごが落ちる云々しかりE=mc2しかり、言われてみれば・・・なんていうモノ程実際にそれを証明したりするのは難しい。だからこそ常識ってのがあるんですね。
ちなみに日本はちょうど応仁の乱真っただ中。
  ▼大塩平八郎の乱(1837)
  天保8年、元大阪東町奉行所の与力で著名な陽明学者でもあった大塩平八郎が、奉行所の飢饉対策に抗議して決起。これが大塩平八郎の乱。江戸時代の三大飢饉と呼ばれる享保、天明、天保の中でも最大とも呼ばれる1833年から1836年にかけての大凶作、天保大飢饉が直接の原因と言われている。
いつの世でも裏切り者ってのは居るもので、この計画も密告者によって通報されることになってしまいます。
ナンダカンダでこの決起は失敗に終わったものの、この事件が幕府に与えた影響は大きく天保の改革に取り組む契機ともなったと言われてる。言われてるだけだけど。(ホントはちょっと違う)
一時、明石家さんま氏が「お前は逃げまどう大塩平八郎か!」ってツッコミを多用していたことがあったけどあれはいまいちだったですね(覚えてる人もいないと思われる)。
  ▼連合赤軍、軽井沢浅間山荘に立て籠もり。警官隊と銃撃戦(1971)
  全共闘から生まれた赤軍派(よど号ハイジャックなんかで有名)と共産党から分かれた親中国の過激派、京浜安保共闘が武力闘争を旗印に組んだモノが「連合赤軍」。トロツキイズムと毛沢東主義、世界同時革命と一国革命、結構主義主張に違いはあるけどとりあえず共産主義だし武装革命ってところでは同じなので小異を捨てて大同についたって感じ。小異なのか?って気がするけど。どんどん思想の先鋭化が進み、内ゲバとか総括とかって呼ばれる仲間内での粛正行為にベクトルが向いて行ったあたりは極限状態での人間の行動心理学なんかからもアプローチがあったりして面白い。
浅間山荘でのこの事件はTVで一部始終が中継されて全国民が釘付けだったとか。累積視聴率は脅威の98%。NHKの瞬間最大視聴率は89%にも上ったらしい。
この事件のさなか、ニクソンが訪中。世界もそして日本(人)も左翼右翼に関係なく大きく変わろうとしていたんですね。そう言う意味での「総括」って意味合いもこの事件には見て取れるかと思ったり。
また1993年のこの日、最高裁は永田洋子・坂口弘両氏の上告を棄却し死刑が確定。判決を同じ日に持ってくるあたりこの事件を知る世代にはやっぱり色々な意味で重要だったんだな、と思わせてくれる。
ちなみにシズカちゃんこと亀井静香は事件当時公安第1課の警視として対策本部のメンバーだった。シズカちゃんは公安キャリアだったんですね。
まぁこのあたりの学生運動とか左翼思想ってのは村下の世代でもいまいちピンと来ない人も多いんだけど、いずれ昭和史では取り上げざるを得ないような気がします。
あと永田洋子氏のその後ってのも結構興味深くて、犯罪学的側面から検討するのも面白そう(このあたりをどう説明するのかな〜って期待してたサイトも閉鎖ちゃって悲しい限り)、獄中で描いた「をとめちっく」な絵や最近のニートやひきこもり現象、いわゆるサブカルチャーとか男女の関係とかってあたりを掘り下げてみても面白そう。実はそれこそが現代史じゃないのかな?なんて思ったりもする。女の代表ヅラしたワケわかんない代議士みたいなのに任せてちゃダメなんだよねぇ。

2月20日  

2月21日  

2月22日
  ▼パリで2月革命がはじまる(1848)
  元々「そういう雰囲気がある」イギリスと違って、歴史的に長く民主体制ってのがなかったフランスはフランス革命以降民主主義を手に入れるために右へ左へ大揺れに揺れる。7月革命で国王の交代があったものの労働者の蜂起によって国王は亡命。立憲君主制は崩壊し、国王を推戴しないある意味社会主義風味の臨時政府が誕生します。これが2月革命。
ま、結局この体制もうまく行くことがなく今度は大統領制へ移行することとなるんですけどね(ここで台頭してきたのがナポレオン3世)。
兎にも角にもフランス革命から第四共和制まで、実に100年の歳月をかけて仏は民主主義を手に入れた訳です。どこかの国から「頂戴した」民主主義でしかない国のそれとは国民意識からして違いますわな。
  ▼佐賀・吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落を発掘(1989)
  すわ!邪馬台国遺構か!?と注目を集めた。大型の物見櫓が「倭国大乱」を証明してたり、同時代のモノであることはまず間違いないと言われてる。
ってゆーか「ひみかちゃん」(吉野ヶ里遺跡オリジナルのキャラクターらしい)はイタイのでやめて欲しいと切に願う。ガイドさんもいないらしい(国が予算を出してくれないとか)んだけど、何が必要かまでわかんないのか?
それはそれとして「すわ!」ってのはどういうところが語源なんだろう???

2月23日
  ▼「漢委奴国王」の金印発見(1784)
  発見場所は博多湾の志賀島。田の溝を修理中の甚兵衛さんとか言う農民によって発見されたとか。後漢書東夷伝にある、建武中元2年(57年)に倭奴国が後漢に朝貢し、光武帝が印綬を賜ったという記事から「漢委奴国王」の金印であることが確認された。これをもって倭奴国は九州にあったと考えた本居宣長の説が有力になった訳だけど、偽物説もそれなりにあった模様。まぁ発見された時代が時代なだけに詳細もわからないから致し方ないんだけどね。1954年(昭和29)に国宝に指定。福岡市博物館にあるのでお近くへ行った際にはぜひ。

2月24日  

2月25日  

2月26日
  ▼2.26事件勃発(1936)
  2月26日とくればなにはともあれこの事件。当時の日本陸軍ってのは青年将校が横断的に結合して国家革新をはかろうとする皇道派と、総力戦体制の国家をめざす幕僚を中心とした統制派の二派に分かれてたんだけども、この前年皇道派の真崎甚三郎教育総監更迭に端を発して相沢三郎中佐が、統制派のポープの永田鉄山軍務局長を刺殺するという事件が発生してる。この相沢中佐の軍事裁判をきっかけとして「昭和維新」決行に下士官たちが動き出すのです。政府の要人を次々と殺害して、最終的には天皇を推戴して国家改造を計ろうと言うモノ。実行部隊の下士官たちは本気で「維新」を考えてたようだけど、彼らを陰日向で擁護してた皇道派の上級将官たちはこれを利用にして一気に陸軍の掌握を狙ってた模様で、行動後の蹶起部隊の処分についても穏便に済ませる方向で動いていた模様。
でも昭和天皇がメチャクチャ怒ってしまった。事態の収拾に手間取る陸軍首脳に対ししびれを切らして「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言い切ったとか。大日本帝国憲法下にあっても極力主張はしなかった昭和天皇なんだけど、それは側近が察してあげなきゃだめなんですね。明治天皇と違って一心同体的な側近がいなかったのが昭和天皇の不幸だったと言えます。
さて、そもそも皇道派(の理屈)ってのが急進的な右翼集団(思想)だった訳で、彼らが推戴すべき天皇にそこまで言われてしまっては自身の存在意義がなくなっちゃう。実行部隊は粛正裁判によって次々と死刑が確定。この後東条英機に代表される統制派によって戦争への道を突き進む訳です。
じゃあ皇道派が主導権握ってたら戦争がおこらなかったと言うとそれも違うんですけどね。
  ▼エジプト、対日宣戦布告(1945)
  サウジアラビアなんかもそうだけど第二次大戦末期は日本とはぜ〜んぜん関係の無い国々が対日宣戦をやってる。日本が第一次大戦時、日英同盟を理由に対独宣戦をやったのがアレコレ言われたりしたようだけど、わたしに言わせればそれよかもっとタチが悪い。
ギリシア・トルコ戦争なんかで日本のお世話になったりして「反ソ親日」と思われてたトルコなんかも対日独宣戦やってたりする。このあたりの「対独はともかく対日宣戦してどうするんだ?」みたいな国々の宣戦布告は、既にイタリア降伏後(よりによって対独宣戦したりする。節操ないなー、もう)の大戦の趨勢が決しようとしてる頃で、もう完全に戦後を意識したモノであるのは疑いないところだったり。

2月27日

2月28日
  ▼財田川事件発生(1950)
  香川県財田村で闇ブローカーが刃物でメッタ突きにされて刺殺された。4月1日に谷口青年が逮捕。約2ヶ月間に渡る拷問のような取り調べを経て8月に起訴され、1957年最高裁の上告棄却で死刑が確定。でもその後の度重なる再審請求によって遂に1984年に無罪判決。生き地獄に等しい33年に渡る彼の獄中生活を思うとやりきれないものが。
戦後は数々の冤罪事件が発生してるわけだけど、その多くが自白に最大の証拠価値を見いだしている。魔女狩りとなんら変わらないこんなやり方がまかり通っていた(いる)かと思うと、自由とか平等とか叫んでる輩は何やってるんだ?と。
表には出てこないけど 同じ様な例で多くの人が無念の涙にくれながら絞首台へのぼっていったんじゃないでしょうか。
  ▼藤子不二雄の「オバケのQ太郎」が週刊少年サンデーで連載開始(1964)
  名義は藤子不二雄だが実はスタジオ・ゼロのメンツ(いわゆる「トキワ荘グループ」)でよってたかって描いてた。当時のキャラクターとか見ると石森章太郎や赤塚不二夫っぽい絵が確認できる。親玉(?)の手塚先生率いる虫プロ商事は理想に走りすぎてて(漫画だけじゃなく思想的なモノも)経済的にはかなり苦しかったのもあって、彼らをバックアップするどころか才能を無駄に浪費してたような気が。時代と言えば時代なんですけどねぇ。
  ▼連合赤軍浅間山荘事件終結(1972)
  事件発覚から10日目、遂に警察が実力行使に出る。午前10時頃より始まったガス弾や放水、大鉄球による山荘破壊は夕方まで続く(鉄球は放水車の水がエンジンにかかって動かなくなった。ちょっとおまぬけ)。そして午後6時20分頃、警察の突入によって人質救出、犯人全員を逮捕と言う結果で終止符が打たれます。この日が学生運動や左翼運動の終焉の日とも言えますですね。同日、メンバーの1人坂東の父親が滋賀県大津市の自宅で首吊り自殺。どんな理屈をこねくり回そうとも身内に迷惑かけて死に追いやる思想は根本的に間違ってると言い切っちゃおう。てめぇ1人で世界が回るとか思ってんじゃねーぞ、みたいな。
ただこういう時代へなんとなくノスタルジーじゃないけど興味持ってしまうのは、今の時代強烈な自己主張がなかなかできないってあたりにもあるのカモ。プチ主張はできるんですけどね。
ま、学生運動ってのは先鋭化されたところばかりが取り上げられてただけで、多くはノンポリだったのが実態だったようですが。

2月29日

 

         
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