12月

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21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 31日

12月1日   

12月2日

12月3日
  ▼インドとパキスタンが全面戦争に突入(1971)
  インドとパキスタンのもめ事と言うのはそのほとんどがインド北西部のカシミール地方を巡ってのモノなんだけど、この第3次印パ戦争はちょっと違ってる。それまでインドを挟んでひとつの国だった東パキスタンが西パキスタンからの分離独立を目指した内紛にインドが介入してきたのがこの戦争。結果西パキスタンは大敗を喫し東パキスタンがバングラデシュを建国します。その後やっぱりカシミールに関する取り決めなんかもインドとパキスタンで話し合われたりする。ヒンズー教国家インドに対してイスラム教信者の多い州が分離独立したのがパキスタンなんだけども、実はカシミールは圧倒的にイスラム信者が多い。しかし当時の地主がヒンズー教徒だったからインドへ帰属しただけなんですね。これが今の今まで尾を引いてるカシミール問題の根本。
最近ではアフガニスタンを逐われたアルカイダがこのあたりに逃げ込んだとか。インドは元々親米のようだけど、今回のアフガニスタン攻撃でパキスタンをも自陣営に入れることができた米。武力だけ見せつけるんじゃなくって外交手腕で唸らせてもらいたいモノですね。

12月4日  

12月5日
  ▼徳川慶喜が江戸幕府15代将軍に就任(1866)
  頭脳明晰と評判が高く14代の将軍候補でもあった一橋慶喜が徳川本宗家へ入り将軍に就任します。実際この時期の幕府を実質的に動かしていたのは一橋慶喜と京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬だったりしまして、長く続いたお飾りの将軍よりもちゃんと指揮できる人が求められたって訳ですね。最終的に慶喜は大政奉還をし、容保と定敬(実はこの二人は兄弟)の会津・桑名藩は戊辰戦争で朝廷側の目の敵にされてしまう。
ただ、このいわゆる「一会桑」はある時期まで完全に朝廷(と言うか孝明天皇)と一体化してたりする。同じ方向を見ていたはずの幕府と朝廷、それがどこでどう狂ったのか?このあたりは講義でばっちりやる予定。
  ▼梨本宮方子女王と大韓帝国皇太子・李垠との結婚が勅許(1918)
  皇太子の名前を見てもわかるように、当時の半島は大韓帝国を名乗ってはいるものの李氏朝鮮の王族が支配してた。まぁ日韓併合が1910なので既に日本の支配下なんだけど、依然として王族は健在で朝鮮総督はあくまで監督するって建前だったらしい。梨本宮方子女王は裕仁親王(当時皇太子)のお嫁さん候補だったのと、朝鮮王族の身分は日本の皇族に準じてるってあたりからこの婚姻が決まったモノと思われ。外へ向けてのアピールとしては「合併じゃなくって合邦なんですよ」、って感じでしょうか。まぁ皇族の婚姻なんてほとんどがそうなのかもしれないけど政略結婚であることに間違いないですわな。溥儀夫妻もそうだけど日本と母国との狭間で特に戦後はかなり苦労されたとか。皇族で至れり尽くせりだった人が、ポーンと世間に放り出されたりしたらそりゃ大変でしょうねぇ。
  ▼ソ連、スターリン憲法を制定(1936)
  レーニンの死後、後継者と目されていた「世界革命論」を唱えるトロツキーに対してスターリンが唱えたのが「一国社会主義論」。スターリンは党内論争に勝利してトロツキーを国外追放させ(後に暗殺)後継者の座にまんまと収まります。次々と反対勢力を粛正している中、制定されたのがこの憲法、ソビエト社会主義共和国連邦憲法です(スターリン憲法ってのは俗称)。
元々レーニンはマルクスの社会主義論が永続革命論であったところから、一国単独で社会主義国家建設はできないって思ってたんだけども、ロシアの現実を見て一国社会主義建設へ動いたって経緯がある。でもスターリンはこれを曲解して一国単独でも社会主義は完成すると言い切ったんですね。ここに至るまで党内ではマルクス主義やレーニン主義については大いに語られた訳だけど、スターリンの主張がその思想をちゃんと継承してるから勝利したってことではなかったりする。
レーニンが最初に導入した戦時共産主義は戦争時だったから成り立った。スターリンの一国社会主義も冷戦下だからなんとか形になってた。戦争やってれば全てうまく回ってたんですね。彼らがやってきたことは、こと政策に関して言えば軍国日本やナチスドイツと何ら変わるものでもなく。中国の改革・開放路線もそうだけど「遅れてきた資本主義」を導入するには国家統制してでも強引に進めるしかないんだな、これが。
  ▼京都市の古都保存協力税導入に反対し金閣寺・清水寺など10の寺院が拝観停止(1985)
  何から何まで自分たちで賄ってるのならともかく、世話になりっぱなしのクセによくもまぁこんなことができたもんだと呆れてしまう。京都の坊主たちはかなり羽振りが良いってのはもはや京都人の常識。(極一部を除いて)特に質素な生活をしてる訳でもなく。もちろん崇高な理念だとか悟りを開こうとかは全く考えていないのが実態だったりする。少なくとも村下が学生時代に知り合った坊主は9割方そうだった。(付き合う人間が悪いとの噂もアリ)
持ちつ持たれつとは言うものの、少なからず世話になってるんだから、貧乏都市京都にちょっとでも還元しようって気概を持って欲しかったものです。
義満だったらポーンと気前よく出したんじゃないの?みたいな。

12月6日

12月7日  

12月8日

12月9日
  ▼王政復古の大号令出される(1867)
  徳川慶喜の将軍職返上によって明治新政府より出された。「王政復古〜」そのものよりも、慶喜が大政奉還と将軍職返上を別々に行っているところがポイント。似たようなモノと思いがちですが、ここに幕府側と朝廷側の思惑が錯綜しているのを見逃してはイケません。詳しくは講義にて。

12月10日

12月11日
  ▼平将門、新皇と称す(939)
  いわゆる承平の乱と言われてるのがコレ。「いてまえ」風味が見え隠れするが日本国内に朝廷と全く別の主権を主張した勢力ができたって意味は限りなく大きい(内実が朝廷のパクリだったとしても)。その後の頼朝の幕府設立にも大きな影響を及ぼしている。「関東」の気風だとかそーゆーものが未だに彼に繋がってるのはある意味スゴイと思ったりも。
  ▼沢庵宗彭没(1645)
  あのお漬け物で有名な沢庵。なんでも「沢庵漬け」ってのは家光命名だとか。京都は北大路大宮あたりにある臨済宗のお寺、大徳寺の僧。「紫衣事件」で幕府へ抗議文を出したけど金地院崇伝に思い切りムカつかれて流罪に。でもその後許されて帰ってきてからは家光の帰依されるようになったとか。実は学生時代の村下はこの大徳寺近くに住んでました。御旅飯店バンザイ。

12月12日  
  ▼「パンの会」結成(1908)
  耽美派(北原白秋が有名)の人たちにより結成。ギリシア神話に出てくる享楽の神「パン」にちなんで酒を酌み交わしながら芸術について語り合う文芸懇談会だったとか。「酒を酌み交わしながら」ってのがミソ。おたんび。
  ▼張学良、蒋介石を監禁。西安事件起こる(1936)
  これによって国共合作が成るんですが、いわゆるゲリラ的存在であった中国共産党がこれによって政権党である国民党と並び立つ存在になってしまった意味は、日本にとっても当の国民党や共産党にとっても限りなく大きかった。大同小異の何が大で何が小なのかを取り違えるととんでもないことになるって言う典型。

12月13日
  ▼アンリ4世生まれる(1553)
  ブルボン王朝の創始者。元々はプロテスタント(新教)の彼はローマ教皇にフランス王と認めてもらうためにカトリック(旧教)へ改宗する。依然として新旧宗教の対立はあったものの、画期的であり後のフランス大繁栄のきっかけともなる「ナントの勅令」を発布して両者の宥和を図る。と言っても新教側が譲歩したって感じなんだけど。
実際フランス絶対王政の崩壊とプロイセン躍進の原動力は、この「ナントの勅令」を停止したことによって優れた技術を持つプロテスタントたちがプロイセンへ大量移民したからに他ならない訳で。わたしたちが思う以上に宗教的な対立は深くって、この時期政治を動かす原動力はまさに宗教だったと言えますですね。
ブルボン王朝は彼に始まり、後のルイ14世によって繁栄の極みを迎える訳ですが、名門ハプスブルグ家との対立って言うか意地の張り合いはさながら松任谷由実と中島みゆき、桂歌丸と三遊亭小円遊、(我ながらものすごい例えを出すなー)。
ルイ16世とマリー・アントワネットの婚姻が「外交革命」と言われるくらい衝撃的だったことが伺えますですね。
ちなみにアンリってのは仏語読みで英語ではヘンリー、スペイン語ではエンリケとなる。元々は独語のハインリヒから来てる由緒あるお名前なのです。
  ▼中江兆民没(1901)
  自由民権運動の講義ではあまり触れられなかったですが、自由民権運動にある意味板垣退助より大きく貢献したのが彼。「葬式はしないように」との遺言を受けてことだったので板垣が新聞広告で「告別式を行う」と出したのが告別式の始まりだとか。
  ▼南京大虐殺(1937)
  1日から始まった首都南京への攻撃は、この日の大本営陸軍部の南京占領発表を以て一応の終結を告げる。首都が陥落したからと言ってそこで戦争が終わらないのが中国の特殊性を表してますね。南京大虐殺とは翌年1月まで続く日本軍による一連の徴発・殺戮・略奪行為を指す。一説には30万人の人が殺されたんだとか。当時30万人もの人は南京にはいないけど。
文革時代に張られた一大キャンペーンによってまんまと既成事実化されちゃった感は否めませんナ。よしりんによって広く知られるに至ったけど、そもそもの出発点だった証言や証拠の信憑性が甚だ薄い。今北朝鮮から公式に発信される情報を誰が信用する?当時の中国は今の北以上の恐怖政治時代。
英訳はNanking MassacreとかRape of Nankingとか言う。失礼な物言いに対しては抗議したって良いと思うんですけどねぇ。

12月14日  
  ▼ノストラダムス生まれる(1503)
  全部当たってるとか全部外れてるとか喧々囂々。侃々諤々。何故か村下家には15年くらい前のムーの別冊が1冊だけあるのですが、ソレ読むとノストラダムスに限らず「おいおい」的な記述がわんさか。ノストラダムスはずーーっと先の未来の予言だからいいけど、こんな近未来のことを予言しても恥をさらすだけと言う良い証拠。いいのか?>学研(だよね?発行元)
それよりもムーなどと言う本が我が家にあると言う事実の方に取り返しのつかない何かを感じてるのはわたしだけでしょうか?
  ▼赤穂浪士、吉良上野介邸に討ち入り(1702)
  なにやら美談めいているけど幕府の役職にしても家柄にしても吉良の方がずーーーーっと上。封建社会では逆ギレする方が間違ってる。まぁホントに田舎侍だったと言うことでひとつ。

12月15日  
  ▼榎本武揚、蝦夷地占領。五稜郭を本営とする(1868)
  空撮された写真がとっても綺麗な五稜郭。未だに評価の高い「北海道共和国」の思想。帝国主義の思想の中で先進的発想ともいわれているが、これが実現していたら北海道は遅かれ早かれロシアの領土になっていたことはほぼ間違い無いと思われ。
  ▼米にて「風と共に去りぬ」公開(1939)
  ビビアン・リーが総天然色カラーで!でも「哀愁」のビビアンが一番です。クラーク・ゲーブルは最初見た時リンゴ・スターかと思ってしまいましたが。
ってゆーか外人は皆同じ顔に見えるワタシです。

12月16日
  ▼近衛文麿、服毒自殺する(1945)
  最後の公爵にして人臣最高位にある近衛家当主。太平洋戦争回避の為に登板したけど結局誰が首相になっても戦争回避は無理だったと思われ。
天皇へ及びかねない戦争責任を東条英機などと共に身代わりになったとも。このあたりは講義で必ずやりたいと思ってるあたりだったりします。よって多くは語らない。

12月17日  
  ▼三十三間堂の落慶供養(1164)
  三十三間堂は正式名称を蓮華王院と言う天台宗のお寺(の一部)。後白河法皇の発願で平清盛によって作られた。あの仏像群は有名な運慶の息子、湛慶作とか。運慶・快慶作と言われる金剛力士像なんかもそうなんだけど、実はこの人たちがコツコツと木を掘ったりして作ったのではなく、彼らはいわゆるアートデザイナー。「三十三間堂は清盛によって作られた」とは言うものの、実際に清盛が木を打ち付けたり壁を塗ったりしてはいないというのと一緒。

12月18日
  ▼源実朝、「金塊和歌集」を完成(1213)
  ナンダカンダ言ってもド田舎の鎌倉にあってこれだけのモノを完成させるのは凄いと思う。しかしド田舎だからこそ鎌倉の重鎮層の反発も大きかったと予想できる訳で。
そして源氏の直系は実朝で絶えるのであります。頼家から実朝に行ったところでもはやズレてるとも言えるけど。
  ▼アントニオ・ストラディバリ没(1737)
  誰よ、アンタ。みたいな。あの「ストラディバリウス」の作者と言えばわかりやすい。むかし一度聴かせてもらったことが。弾いた人がヘタッピだったのでせっかくの名品も台無し。バブルとは悲しいモノですな。
  ▼平賀源内没(1779)
  多くの顔を持つ江戸中期の人。本名は平賀国倫。静電気を活用したエレキテルや石綿で有名。その発明品の多くはお上に取り入れてもらえず、そのいらだちを戯作にぶつけたとか。実際1760年代〜80年代にかけて彼が刊行した本や上演された浄瑠璃は数多くて、そのあふれ出る才能に危険視するような人も少なくなかったとか。
蘭書から洋風画法を学んでいた(独学ってのがすごいねえ)彼は秋田藩に呼ばれ、後にあの「解体新書」に挿し絵を描くことになる藩士・小田野直武に洋風画法を伝授する訳だけど、これが後の秋田蘭画の原点なのは間違いないところで。秋田蘭画は中国写生派・沈南蘋(”シンナンピン”と読みます)の作風が根底にあるんだけど、それに洋風画法を取り入れたことは絵画史上画期的なことだったり。
  ▼朝鮮で洪景来の乱が起こる(1811)
  李氏朝鮮に対して不満を持つ官僚、洪景来に率いられた農民たちによる反乱。これを契機にロシアへの朝鮮人移住が始まるんですが、ソ連による北朝鮮建国や朝鮮戦争への支援などに思い切り利用されたりしている。現在の韓国や北朝鮮ではどうも伏せられてるようで歴史を直視してないのはどっちなんだかって感じ。
  ▼ヒトラー、バルバロッサ作戦を指令(1940)
  実際に軍が動くのは年明けを待ってから。この「バルバロッサ作戦」とはいわゆる独ソ開戦時のドイツによる奇襲攻撃を指します。669日間の「ありうべからざる」同盟関係の終焉ですナ。欧州戦線を破竹の勢いで進んでいた独軍でしたが実は仏を含めて欧州には独に対抗できるような軍を持った国がいなかっただけ。このあたり昭和の講義でやるかも。

12月19日  
  ▼山名氏清、足利義満に叛し挙兵(1391)
  これが「明徳の乱」。当時日本にあった66国の内、11国の守護を兼ねる山内氏は義満にとっても大いなる脅威だったのですが、肥大化した一族の領地紛争に介入することで山内氏に謀反を起こさせることに成功。実はこの戦い、義満本人にも必ず勝てると言う自信は無かった模様。1日で勝っちゃったけど。
この乱の鎮圧によって義満は盤石の体制を整えることとなります。有力守護大名を黙らせた後は朝廷対策。詳しくは本講義にて。
  ▼羽柴秀吉が太政大臣となり豊臣姓を受ける(1586)
  藤原氏になったにも関わらず豊臣姓を拝領したのは豊臣家による関白の独占世襲を目論んでいたのはミエミエな訳です。ある意味足利将軍をより朝廷に近づけた感じの支配者、秀吉が狙っていたのはそのあたりにあるのカモしれませんですね。
  ▼大岡忠相没(1751)
  忠相が吉宗の目に留まったのは忠相が山田奉行、吉宗が紀伊藩主の頃。ただ江戸町奉行在任20年中、忠相が裁いた案件はわずかに1件だけだったとのこと。それでも大岡忠相の評判が良かったのは、裁判官としての彼よりも行政官としての彼を大きく評価してあったからであろうと言われている。
そしてどうしても加藤剛の顔しか思い浮かばないワタシ。

12月20日  
  ▼鑑真、唐招提寺を開く(753)
  いつの世でも宗教家への課税は軽いんですが、道楽天皇聖武を悩ませたのが私渡僧と言われるいわゆるジサクジエーンの僧。朝廷は「受戒」した者のみを僧として認めると言うことで鑑真が呼ばれたのです。(当時の日本にはそーゆーことができる人がいなかったので)
この唐招提寺はいわゆる天平建築の代表的なモノなんですが私設のお寺なので他の官営寺とは違った趣が。奈良へ行った際は真っ先に押さえたいポイントかと。有名な鑑真の木造はここの所蔵のモノ。(当たり前か)
  ▼ルイ・ナポレオン、フランス大統領就任(1848)
  このナポレオンは「不可能の文字がどーのこーの」のナポレオンではなく、その甥のいわゆる3世と呼ばれた人。この後クーデターによって皇帝となり、再び仏は帝政へ移行します。有名な普仏戦争ってのはこの人が皇帝時代のフランスと、首相ビスマルク率いるプロイセンとの戦争の事。普仏戦争時のアルザス、ロレーヌを舞台に。。。そんな物語もありましたね。
ってゆーか昔から大国と言われてる割に仏って負けてばっかじゃん・・・とは言ってはイケません。地理的にしょーがないのです。「だったら独なんてもっと条件悪いじゃん!」みたいなツッコミも不可。そっとしておいてあげましょう。
  ▼韓国統監府、設置(1905)
  第2次日韓協約により大韓帝国の外交権を接収した日本が京城(現在のソウル)に設置。初代統監は伊藤博文。後の日韓併合によって「朝鮮総督府」と名前を変えます。歴代の統監や総督を見ればわかるように政界の重鎮が名を連ねているのは半島が日本にとってどれだけ重要だったかを物語っている。それは統監府への国家予算の振り分けにも明らか。統監府や総督府がやったことを全て悪だったというのならいつまでそのインフラを使ってるの?と聞いてみたい。
  ▼第1次インドシナ戦争始まる(1946)
  インドシナ戦争と言うのはこの第1次から第3次まで続く訳だけど(第2次があのベトナム戦争)、その性格や目的、主体なんかは毎回違う上にいろんなことが複雑に絡み合って難解なことこの上ない。この第1次は敗戦によって撤退した日本に替わって再びベトナムの侵略を狙ったフランスに対し、ホー・チ・ミンが徹底抗戦を国民に呼びかけたところから始まるベトミン(ベトナム独立同盟会)の対仏独立戦争と考えればよろしいかと。
1954年のジュネーブ協定によって(境界線は国境ではないとの見解なんだけど)南北のベトナムが誕生して一応の終結を見る。でもこの協定、アメリカと南ベトナムが調印しなかった。そしてこれ以降米が南にどんどん介入していくことで再び泥沼の戦いが始まる訳です。ベトナム戦争についてはいずれお話する機会があるかと思いますのでそちらで。
  ▼南ベトナム解放民族戦線結成(1960)
  周りのカンボジアやラオスまで巻き込んで東南アジアを泥沼の戦いへ導いてしまったベトナム戦争。対日戦と決定的に違うのが米軍(米国民)を動かす動機付けが全くなかったところ(ウォーターゲート事件なんかの影響もあるけど)。敵対する国家に傀儡政権作って体裁整えようなんて満州や汪兆銘政権のことアレコレ言えた義理か?
マスコミを敵に回しちゃったのは痛かったネ。

12月21日
  ▼紀貫之、「土佐日記」を執筆開始(934)
  「日記」だけに書き始めた日も記述されていると言うとてもわかりやすいお話。有名な「をとこもすなるといふ〜」で始まる一文は「つれづれなるままに」と並んであちこちのサイトで見かけることができる。これらのフレーズと「お気楽ご気楽」は村下がサイトやるにあたって「絶対使わないぞ!」と心に誓った一文だったりする。
  ▼徳川幕府9代将軍家重生まれる(1711)
  家重は吉宗の第一子。言語が不明瞭で、彼の意を汲み得た側用人大岡忠光の専権を許してしまった。吉宗がせっかく頑張ったのにまた逆戻り風味。この家重をもり立てようと弟である宗武と宗尹を大名にはせず10万石を与え、田安家と一橋家を興させ、コレが御三卿のウチの2つになります。田沼意次が小姓として仕えだしたのも家重の頃。吉宗や家斉あたりの狭間でパッとしないけど結構ポイントな時期の将軍だったり。
そう言えば影の軍団(たしか2)の敵役が大岡忠光だったような・・・。(扮するは成田三樹夫)
  ▼江戸幕府、日露和親条約を調印(1854)
  ロシア皇帝ニコライ一世の命でやってきたプチャーチン提督と締結。英・仏と戦争中だったところに米が日本と和親条約を結んだと知ってかなりあせってやってきた模様。
実は千島列島の領有についてはっきり明記されたのがこの時で、今の北方領土問題の日本の言い分はここまで遡るのです。ま、ヤルタ協定しかりポツダム宣言しかり、どう理屈をこねくり回そうともソ連のやったことは火事場泥棒以外の何物でもない。
  ▼スターリン生まれる(1879)
  実は「スターリン」は本名でなく、ヨシフ・ビサリオノビチ・ジュガシビリ(←検索して調べた)が本名。ロシア革命の時に当局の追求を避けるタメにお互いをコードネームで呼び合っていたところから来てる(レーニンも同じ)。レーニン没後、大粛正を行い独裁体制を敷く。5カ年計画やコルホーズなんかはこの人発案。計画経済の成長はめざましいものがあって、60年代は飛躍的な発展を遂げた。「70年代には米の生産力を完全に上回る」なんて演説も飛び出す程イケイケだったり。(←これはスターリンが言ったんじゃないけど)
その後の有様はご存じの通り。元々が低いレベルだったから飛躍度が大きかっただけの話。
村下の親の世代ってのはマルクス主義に染まった人が多いんだけど、一度じっくりお話を聞いてみたかったり。小1時間ほど問いつめてみたかったり。
  ▼ド・ゴール、フランス第5共和国初代大統領に就任(1958)
  同年10月に成立していた第5共和国憲法下初の選挙によって初代大統領に就任。でもやっぱ根が軍人だけに政策も武断風味。サハラ砂漠の原爆実験やNATO脱退などが国民の大反発をうける羽目に。そして1968年5月、学生デモを発端に起こった労働者のゼネストによって仏内は大混乱に陥り遂に彼は辞任に追い込まれます。アジアやアフリカではまだまだ紛争はあったんですが、戦火に晒されない欧州においては武断政治家は求められなかったってことなんでしょうかねぇ。

12月22日

12月23日
  ▼今上天皇生まれる(1933)
  と言うことで天皇誕生日。
  ▼南アフリカで猿人の化石を発見(1942)
  一般的にはアウストラロピテクスと呼ばれる生物。人類種としては最古のモノと言われている。その名が示す通りほとんど猿。だが現在の見解ではヒトでも類人猿でも、またその中間形態でもない完全な別の動物と言うことになっている。直立歩行もしていなかったことが示されている。
ピテカントロプス(原人)も含めてアヤシイ点はとっても多い。明石原人ばかり疑ってないでそっちやんなさいよ!みたいな。
また機会があれば研究室ででもお話したいと思ってます。
  ▼A級戦犯7名、絞首刑執行(1948)
  当然東条英機も含まれます。口頭弁論での東条の言い分に全くもって反論できなかった判事たち。勝者が敗者を裁くようなモノが公平である訳がない。しかし大日本帝国憲法では戦争責任は誰にも落とし込むことはできない。これはいずれ講義でやります。

12月24日  

12月25日

12月26日
  ▼則天武后没(705)
  則天武后は通称で名前は武照と言う。唐第三代皇帝高宗の后。実はその前の皇帝太宗の妃で、出家していたところを高宗によって還俗させてもらってまんまと皇后の地位に。高宗死後、息子2人を皇帝の座につけるがいすれも廃位、自ら聖神皇帝と称して即位すると共に国号も周に変えた。この国号は古代にあった周と区別するために「武周」と呼んだりも。間違いなく「皇帝」なんだけど、「后」としか呼んでもらえない。この人のことは研究室で取り上げたいなーなんて思ったりしてます。
  ▼藤原忠平が『延喜式』を奏進(927)
  「えんぎしき」で十分通じるが「でんぎしき」と言うのが正しいらしい。あの菅原道真と朝廷の主導権を争った藤原時平に編纂の命が下り、その後を継いだ忠平により完成された。弘仁・貞観式を併合・取捨したもの。施行までは40年の歳月を要した。延喜格式は「式」のみが現存している。
  ▼藤原純友の乱(939)
  コレが「天慶の乱」。平将門の乱とセットで語られることが多い。遂に武力が時代を動かすようになったことを感じさせる事件。
  ▼待賢門の戦い(1159)
  平安京大内裏東面の待賢門で源義朝軍と平重盛軍が戦い清盛軍が勝利。これで平治の乱が終結。源氏が衰退してコワイものもいなくなったってことでいよいよ平氏の官職独占が始まるのです。頼朝はこの義朝の息子。ここで頼朝を殺してしまわなかったのが清盛最大の失敗だったのであります。
  ▼「続古今和歌集」を撰進(1265)
  後嵯峨上皇命により編纂された11番目の勅撰和歌集。代表撰者は藤原為家。中世和歌の第一人者一条兼良なんかも関わっている。 結構鎌倉時代の情報を得ることができたり。約1900首の和歌中最多は鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の67首。親王の将軍更迭前年成立の和歌集だけにそのあたりも関係してるのかも。

12月27日
  ▼源頼朝が落馬(1198)
  これがもとで翌年1月13日に死んだと「言われている」。言われてるだけ。打ち所が悪かった?フーン
  ▼英・蘭、メシュエン条約締結(1703)
  西・葡(スペインとポルトガル)の影響力が低下して代わって英・仏が台頭してきたってのを象徴している。リカードの「比較生産費説」が出たのもこの頃で世界経済が大きく動く時代だったんですね。それは植民地からの搾取をベースにしてんだけど。
  ▼瑞金にて中華・ソビエト共和国臨時政府成立(1931)
  当然主席は毛沢東。蒋介石の南京国民政府が国共合作をしたのがこの政府。言ってしまえば半植民地風味の当時の中国でナショナリズムが高揚するのは必然であって、それをソ連は共産主義拡大の材料に、そして毛沢東は自身の権力掌握に使ったにすぎない。日本はその材料に思い切り利用されちゃった、と。その構造は今に至っても全く変わってない。
  ▼ソ連軍、アフガン侵攻(1979)
  ビン・ラディンが対ソの材料として米に支援されていたのはもはや周知の事実。なにやら北部同盟は良い感じに思われるフシがあるけど現地ではアルカイダの方が支持されてたりなんかして。米から出される情報ばっかし信じちゃって湾岸戦争の時の教訓がまーだ活かされてないじゃん。痴呆症か?誰とは言わないけど。

12月28日
  ▼平重衡が東大寺・興福寺を焼き払う(1180)
  以仁王や源頼政の支援をしたってことで平重衡によって行われたこの行動がいわゆる「南都焼き討ち」。東大寺や興福寺はいわゆる南都と呼ばれる奈良仏教の本拠地なんだけど、後年の信長の比叡山焼き討ちなんかの例を挙げるまでもなく武士の悩みの種であったことは確か。長年かけて作り上げた大伽藍は一瞬にして崩壊。平家物語にも書かれてるよーに「盛者必衰」を身を持って示してくれた。
ま、一方的に重衡だけを悪者にするのは如何なものかと。先に手を出したのは南都側。重衡はその報復をしたにすぎない。「すぎない」って言っても文化的には大損失だったんだけど、どっちもどっちなんちゃう?
  ▼イスラエル遊撃隊がベイルート空港を奇襲(1968)
  中東問題は人種や宗教が絡み合ってよくわからない上に欧米の思惑やら昔からのしがらみでこっち立てればあっち立たず風味で混乱の極みだったり。例の米へのテロも根は深ーいところにある。中東が資源を持ってるってあたりが更に問題をややこしくしてたり。どうしてもでしゃばりたい米、自分たち(ユダヤ人)の国を守りたいイスラエル、イスラムの聖地がユダヤ教国家の元にあるのが我慢できないアラブ諸国。こんなところでしょうか。かなり端折ってますが(笑)。
  ▼タイのイスラエル大使館をアラブゲリラ占拠(1972)
  上と同じ。イスラエルの抱える問題は大きい、大きすぎ。日本のような多神教風味な国家にはどうやっても理解できないかと。わたし含めて。
  ▼バングラデシュが非常事態宣言(1974)
  宗教問題からインドを挟んで東西に分かれた国家パキスタンが独立、しかし西パキスタン主導に反発する東パキスタンがインドの協力を得て独立したのがバングラデシュ。しかし1973年から始まった大飢饉によって時の首相、シェイク・ムジブル・ラーマンが出したこの宣言以降、国内は荒れに荒れる。度重なる軍事クーデタと政治システムの変更。もうワケわかんない状態。一昔前にようやく安定しかけたようだけど今また混乱期に入ってる模様。どこでもそうですがやっぱり軍を握ると強い。

12月29日
  ▼松平家康が徳川に改姓(1566)
  ここで三河守になるんですが、一連のお話は講義でやった通り。幕府開設のはるか前に改姓してるところがポイントかな。
  ▼怪僧ラスプーチン暗殺される(1916)
  帝政ロシアで絶大な権力を握っていたラスプーチン。彼には青酸カリ入りケーキも毒入りワインも効かなかったとか。これも暗殺って言うかなんと言うか、極寒の中、川に突き落として溺死させたんですが。ショック死じゃないあたりが常人とは違う何かを感じさせる。
歴史に出てくる僧ってのはその多くが催眠術的なモノで相手をその気にさせてしまう、みたいな手で巧みに権力にはまり込んで行くんですが彼もその例に漏れず、血友病の皇太子の出血を祈祷によって止めたってあたりから皇后の信頼が厚くなってくのです。まぁ道鏡と称徳の関係を見るまでもなく、オトコとオンナがいればウワサになるのは避けることができない訳で。
結局彼と皇后とのウワサが彼の暗殺を呼び、皇帝の権威失墜を引き起こし二月革命を引き起こす原因となって行く訳で、堕落はあざなえる縄の如しってところでしょうか。(意味不明)
皇后は敵対するドイツ出身で、独寄りな政治をしたんじゃないかってあたりもあるんですけどこのあたり国家主義的志向の強い独に対するって意味でも共産主義台頭の大きな要因だったりします。
  ▼日本政府、ワシントン海軍軍縮条約破棄を米に通告(1934)
  ワシントン条約ってのは絶滅の危険のある生物を・・・ってお約束は置いといて、この条約は主力艦の保有比率を定めたモノ。米英の10に対して日本は8くらい。枢軸側に圧倒的に不利な条約だった。この条約破棄で八八艦隊に代表される日本海軍の陣容が決まった。しかし悲しいかな太平洋戦争は海軍ではなく空軍が主人公だったりする。そして航空機の有効性を示したのは当の日本軍だったんですが。

12月30日  

12月31日  
  ▼大本営がガダルカナル島撤退を決定(1942)
  戦争開始時に海軍の山本五十六氏が言ったようにある程度までは暴れるだけ暴れた。日本としてはそれなりのところで講話に持って行きたかったようだけど米は元々そんなつもりは全くなかった。まぁ前年のミッドウェーで全ては決してたんですが。
当時ガダルカナルの日本兵のウチ4/5はまともに戦えるような状態になく(怪我や病気)、考え出された物資輸送方法のドラム缶輸送がこれまたお粗末な作戦で悲しくなってしまう。いつの時代も行き当たりばったりなTOPだと結局そのツケが回されるのは国民であるって言う証拠はいくらでも出てくる。まだわかっていない人が多くてリンダ困っちゃう。

 

    
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