11月

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11月1日   
  ▼蘇我入鹿、斑鳩宮に山背大兄王を襲撃(643)
  王は一旦生駒山へ逃げますが王の側に付く者も少なく「一身のために百姓万民を労するに忍びず」として斑鳩寺(法隆寺)に戻り一族共々自決します。ただこのあたりは講義できっちりお話してるので割愛と。
  ▼米、世界初の水爆実験に成功(1952)
  水爆とは言うまでもなく水素爆弾の事なんだけど、そもそも水爆と原爆の違いは、原爆がウラン化合物の原子核へ中性子をぶつけることで核分裂を引き起こし、その核分裂によって飛び出した中性子が更に別の原子核の分裂を・・・というように連鎖的に行われる核分裂によって出るエネルギーを利用するのに対して、水爆は重水素の同士の原子核を融合させヘリウムを作り出す時にできるエネルギーを使うと言うところにあります。それだけ聞けば水爆ってクリーンな爆弾(なんだそりゃ)って感じですが、太陽を見てもわかるように核融合反応をおこさせるには数千万度の高温が必要です。その高温を発生させるためにどうしようか?原爆使っちゃおうと、こういう訳です。原爆を重水素で包んでまず原爆を爆発させ、それによって生じた高温を利用して核融合反応を行わせると。
この実験で使われた重水素は液化したものだったので「湿式水爆」と言います。その後ソ連が重水素をリチウムと化合させ固体化したものを使うことで大幅な小型化に成功します。これが乾式水爆でこのことで水爆の戦闘機への搭載が可能になった訳ですね。
まぁ水爆も原爆同様にナチスドイツの技術者がそもそも研究を開始したもので、こういうことを知ってくるとあながち「ナチスの科学力は世界イチィィィィィィ!」ってのもウソじゃないなと思う次第なのです。

11月2日

11月3日

11月4日  

11月5日

11月6日

11月7日  

11月8日

11月9日
  ▼江戸幕府、寺社奉行を設置(1635)
  定員は4名。寺社に関する行政・訴訟を管轄。後にはキリシタン取り締まりや関八州以外にいる旗本の訴訟も扱うようになっていたようです。元々幕府初期に金地院崇伝がやっていた仕事を崇伝死後、職制として規定したってイメージでしょうか。
寺社奉行・町奉行・勘定奉行を三奉行と総称するんですが、寺社奉行だけは大名格と高くて奏者番を兼ねることが多かったようです。と言うか奏者番の人から寺社奉行を任命するというパターンとイメージした方がわかりやすいかと。
そもそも奏者番に任命されるということはすなわちエリートの証明であって、その中から選抜される訳ですから寺社奉行はまさにエリート中のエリートということになります。まぁ崇伝がやってた仕事ですから当然と言えば当然なのかも。
寺社奉行→大阪城代→京都所司代→若年寄→老中と言うのが幕閣のゴールデンコースで、それだけ重要ポストと言えるでしょうね。
老中を筆頭にこれらは全て幕府の行政中枢ですから、必然的に譜代大名から選抜されることになります。
ちなみに大岡越前(大岡忠相)も晩年になって吉宗の計らいで大名しか就くことができない寺社奉行に大抜擢されてます。家禄を加増して旗本なのに大名扱い。
後にも先にも大名以外で寺社奉行になったのは忠相ただ1人とは言うものの、忠相自身にしてみれば、最初は奏者番にも任命されなかったんで他の寺社奉行に控え室へも入れてもらえないいじめにあったり、自身の年齢(当時60歳を越えていた)もあって相当苦労したらしく、町奉行からの棚上げ的異動って捉え方だったようです。
  ▼ベルリンの壁崩壊(1989)
  1949〜1961年の間、約250万人の東ドイツ市民が西ドイツに脱出し東ドイツ経済が壊滅的打撃を受けます。そこで東ドイツは東ベルリンと西ベルリンへの通行を遮断する障壁を構築します。これがベルリンの壁。
当初有刺鉄線とブロックだった壁はその後監視塔と銃座が追加され、地雷に守られた有刺鉄線付きのコンクリート壁に発展します。80年代までに壁は45キロに渡ってベルリン市を分断、その後更に120キロ延びて西ベルリンを囲い込み東ドイツは西ベルリンを完全隔離してしまいます。
38度線と並んで東西冷戦の象徴となったこの壁も、1989年10月から東欧に吹き荒れた民主化のうねりの中、遂にこの日東ドイツ政府は西ベルリンを含む西ドイツとの国境開放を発表。ベルリンの壁は打ちこわされて東ドイツ市民は西側と自由に往来できるようになります。これがベルリンの壁崩壊。
もうTVで何度もやってて有名なお話になっちゃってるんで詳細は触れませんが、この国境開放はちょっとした間違いから雪崩式に進んだもので、ある意味時代の流れには誰も逆らえないんだろうな〜って言うのを強く感じる出来事であったなと思う次第です。
ドイツやロシアに限らずこの時期の東欧各国の動きはすごくダイナミックなんで、是非とも触れておいてもらいたいところ。

11月10日

11月11日

11月12日  

11月13日

11月14日  

11月15日  

11月16日

11月17日  
  ▼霜月騒動(1285)
  鎌倉幕府得宗家の内管領、平頼綱の讒言によって執権の北条貞時が安達一族を討伐。最後の有力御家人である安達泰盛の殺害によって、得宗家による専政体制が確立します。でも実はこの得宗家も内管領によって有名無実化させられちゃうんですけどね。
ちなみに内管領とは北条家に使えた武士(御内人)の頭領のことを指します。
霜月騒動は講義でやりますので詳しくはそちらで。
  ▼メビウス生まれる(1790)
  メビウスの輪に代表される共形幾何学で有名。乱暴に言えば二次元の三次元的扱いって感じ。これの三次元バージョンがクラインの壺。次元の話はとても面白いので一度研究室でも取り上げてみたいなぁと思っています。
  ▼公明党が結党大会(1964)
   でこそ中道と呼ばれてるけど当初は「仏教社会主義」とか言う思想を掲げていたりした。まぁ当時は「護憲・反安保・社会主義」なんていう思想が大流行していたからわからないでもないんだけどね。こうも高々と政教一致してると逆に清々しいって言うか。ただ一旦左翼を名乗ったのならそれなりにけじめはつけてくれないとねぇ。この政党だけに限らず。
  ▼第1回ドラフト会議(1965)
  正しくはプロ野球第1回新人選手採用選択会議。村下世代のイメージはドラフト=パンチョ伊東氏の声なんだけど。こういう制度が発足したのは「何でも公平に」って言うことが原因なんだろうと思う(タブン)。ただ今も昔も日本球界ってのは巨人に支えられてるって言う構造は変わっていない。そしてきっと将来も変わらない。それほどまでに巨人戦の放映権収入は大きい。箸にも棒にもかからない(かつて村下もファンだったことのある)お荷物球団であってもセ・リーグに居る限り安泰なんだな、コレが。

11月18日

11月19日  
  ▼源義仲、後白河法皇の御所・法住寺殿を急襲し法皇を幽閉(1183)
  義仲は破竹の勢いで平氏を倒し入京して来たんだけど、実のところその軍は烏合の衆。体勢を立て直した平氏軍と摂津での合戦では負けてしまいます。まぁ後白河法皇も大ダヌキな訳で、義仲を使いつつも頼朝も使うことで両者を牽制し合わせ、相対的に自己の地位も安定させようって狙いがありありと伺えてた。この法皇の態度に怒った義仲が法皇幽閉の挙に出たのがこの事件なんだけれども、これ以前にも平清盛が法皇を幽閉してる。ここでポイントなのは法皇殺害じゃなくって幽閉ってところ。自身の権力を保証する存在としてやっぱり法皇(天皇)が必要だったあたりが日本独特の権力構造を垣間見させてくれますですね。
  ▼徳川吉宗の四男宗尹、一橋家を創設(1740)
  御三卿のひとつ一橋家(他の二つは田安家と清水家)がここから始まります。最後の将軍徳川慶喜もここの出。御三卿って言うのは吉宗が自分の跡継ぎ確保の為に作った家。当初は養子に行くのにふさわしい家がみつかるまでの暫定的なモノだったらしい。居所は江戸城一橋門内。格付け的には御三家の次ってあたりなんだけど、意識的に公家と婚姻関係を結ぶことでかなり権威的には大きいモノがあったとか。歴代当主の中では太政大臣になった人までいたりなんかする。
  ▼ロサンゼルスで三浦和義さんの妻、一美さんが銃で撃たれ重体(1981)
  これが以後数年に渡ってワイドショーにネタを提供し続けた「ロス保険金殺人疑惑事件」。覚えてるのは景山民夫扮する「フルハム三浦」くらいなモノで、当の事件はもう忘れてる人も多いと思われる一連の「ロス疑惑」。これはハンマーらしきモノで殴ろうとした「一美さん殴打事件」と三浦氏の元愛人で一美さん事件にも大きく関わってると見られていた白石千鶴子さんがロス近郊で白骨死体となって発見された「白石千鶴子さん殺人事件」、一美さんが銃で狙撃された「一美さん銃撃事件」の三つから成ってる。実は殴打事件の方は既に刑が確定して三浦氏はその服役も完了してた。そして千鶴子さん殺害と銃撃事件の方は証拠不十分ということで無起訴と無罪になってる。千鶴子さん殺害の方はともかく、一美さん銃撃事件の方で検察の提示してきた証拠はツッコミどころ満載でいちいち挙げてたらキリがないんだけど、素人が見てもアレじゃあ状況証拠としてもあまりにも薄弱すぎですわな。大きな事件になるととたんに解決できなくなる警察(&検察)はその組織構造に無理があるし、「推定無罪」の原則を忘れて野次馬的報道に終始したマスコミはもっと糾弾されるべき。
それはさておきこの一連の報道で事件とは関係のない過去を暴かれまくった三浦氏は名誉毀損で次々とマスコミを告訴。なんとそのほとんどで勝利してる。ある時期からパタっと三浦氏関係の報道が消えていったのはそんなのも関係してるんですね。ヘタレでは定評のあるマスコミの面目躍如ってところでしょうか。

11月20日  
  ▼ハンガリーが日独伊三国同盟に加盟(1940)
  第一次大戦の戦敗国として全国土の2/3と言う広大な領土を失った上に、周辺国のチェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアから経済的封鎖を受けて身動きとれない状況だったハンガリー。同じ敗戦国のドイツでナチスが台頭してくるに従って急速に接近するのもやむを得ないと思われ。
当時このハンガリーを率いていたのが摂政ホルティ提督。普通提督って言うのは海軍の将官に付けられる称号なんだけど、実は第一次大戦の敗戦でハンガリーは海港を失ってて海軍を持っていなかった。また摂政って言うのはもちろん国王を補佐する役職なんだけど、当時ハンガリーにはハプスブルグ家の復権を嫌う周辺諸国の圧力もあって国王がいなかったのです。んじゃホルティが国王になればいいじゃんってなるんだけど彼自身が権威ではなく権力を望んでいたため、摂政として「とりあえず」国体を王政のまま残してたんですね。
  ▼江青ら「四名組」の裁判を開始(1980)
  結局のところ文革って権力に固執した毛沢東とその取り巻きの暴走ですよね。始皇帝の焚書に勝るとも劣らない愚行だなって思うけど、当時はこんなのでさえ支持してた人がいるんだから思想って怖いな、と。左翼ばっか責めてもしゃーないんだけどね。それだけ行動してきたって証明なんだろうし。評価はしないけど認識はしたいと思う今日この頃。右翼なんて相変わらずなんだから。
  ▼野党4党が森内閣への不信任案を提出(2000)
  賛成に回ると思われていた自民党加藤派が急転直下採決欠席と言う最悪の選択をして法案は否決になります。これがいわゆる「加藤の乱」。自民党からも野党からもそして国民からも歓迎されなかったこの選択、次期総裁最右翼とまでいわれた加藤氏の政治生命は事実上ここで終わってしまいます。ここ、近年の政治でも非常ーーに面白いところ。ぜひ講義でやりたいと思っています。

11月21日
  ▼ナポレオンが「ベルリン勅令」を発布(1806)
  別名を「大陸封鎖令」と言って、大陸諸国とイギリスとの通商を全面禁止した勅令のこと。度重なる対仏大同盟をもろともせずオーストリア、プロイセン、ロシアと言った大陸内の大国を次々と破りその支配下に置いたナポレオンはベルリン入城後、前文8カ条、本文11カ条からなる本令を発布します。ヨーロッパ全土でここまで圧倒的であったにも関わらず何故にイギリス本土上陸を目指さなかったかと言うと、オーストリア戦の前にイギリス海軍にこてんぱんにされてるからだったり。ならばと考えたのが武力制圧じゃなく経済封鎖と言うことですね。
しかし、イギリスがメインとしていた市場って言うのはヨーロッパよりもむしろアジアでありラテンアメリカであった訳で、更には産業革命によって突出した経済力を持つイギリスとの関係を絶つと言うことは、イギリスにダメージを与える前に自分たちの方が困ってしまうと言う状況に陥ってしまいます。「フランスのために」その一点で動いていたことによって占領地からは搾取するだけになってしまっていた彼。この時点でもう崩壊の足音は聞こえてきていたのですね。
  ▼日本赤軍幹部、丸岡修が都内で逮捕(1987)
  日航機をハイジャックしてバングラデシュのダッカへ強行着陸、乗客乗員と引き替えに日本赤軍メンバーの釈放と身代金を要求した通称「ダッカ事件」の主犯格が彼。時の首相福田赳夫が「人命は地球より重い」として犯人側の要求を全部のんだ。これが世界各国から「弱腰」と散々に非難を浴びることになっちゃう。そりゃ身代金16億円も払ってたらねぇ。かと言ってこの前のロシアみたく人質もろとも犯人射殺なんて暴挙には出られないだろーし。
この事件がきっかけとなって警視庁と大阪府警にSAT(Special Assault Team/特殊急襲部隊)が設置されることになった。SATにかける費用は莫大なモノな上に、これまで出動は3回しかないんだけど、これも保険だと思えばそれも致し方ないかななんて思ったり。踊る大捜査線のSATはカッコ良かったしね。
  ▼総評が解散(1989)
  これによって全日本民間労働組合連合会(連合)と全国労働組合総連合(全労連)が発足します。労働組合ってのは当然のことながら左系の思想を色濃く持ってまして、当然政治との繋がりも深いのです。大雑把(ホントに大雑把なのでツッコミ入れないように)なんだけど、総評は旧社会党と共産党、同盟が(中道を名乗っていたけど)旧民社党、連合が旧社会党で全労連が共産党とでも思ってクダサイ。んで、総評解散ってのは簡単に言えば社会党が共産党と縁を切って民社党と一緒になろうとした、って感じかな。だから連合母体の細川連立政権は社会党主導であり民社党がなぜか大きな顔をしてた訳です。あの野党連合には「反自民」って旗印ともうひとつ「非共産」というものがあったのはソコにポイントがあるんなんですね。労働組合は似たような名前がいっぱいあってこんがらがりますが、とっても微妙な問題なので試験なんかには出やしません。ってゆーか出せません。ですので興味ある人以外は覚えなくてもよろしい>受験生諸君

11月22日
  ▼京都所司代・水野忠邦が老中に就任(1828)
  京都所司代というのは老中に次ぐ役職。大坂城代や寺社奉行を歴任して来てるってあたりからして幕府のエリートコースを歩んで来た人と言える。江戸三大改革と言われるうちのひとつ天保改革で有名。ただ享保改革はまだしも寛政・天保は共に成功したとも言い難く、特に寛政は幕府にとって致命的だったと村下的にはみてる。ありとあらゆるモノを幕府専売制とした上で庶民に倹約を強いる、決定的だったのが江戸と大坂周辺を幕府直轄地にする上地令。こう言うのは単なる引き締めであって改革でも何でもないんだな。経済建て直しの方向性が根本的に間違ってる。天保の改革については西南雄藩の藩政改革と一緒に語るべきものなので講義でやります。
  ▼J.F.ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで暗殺される(1963)
  翌日、初の通信衛星での日米中継で報じられたのがコレ。当初の事件調査委員会公式発表は犯人はリー・ハーベイ・オズワルド。でも事件から14年後1977年、時の大統領カーターによって再度調査委員会が設置されてオズワルド単独犯説は否定された。公式的には解決したはずの事件がもう一回大統領の命令によって調査やり直しだなんて、如何にケネディ暗殺が米国民にとって大きな事件だったがわかると言うもの。
事件直後に設置された委員会は2039年、このカーターによって設置された委員会が2029年、共に国家機密とのことで非公開だった情報はこれらの年に公開されることになってる。村下でさえ生まれてない年に起こった出来事なのにそんなに長い間秘密にしててどうする、みたいな。
全てがわかった時、オズワルドの「It's all over now!」の意味もわかるし長年の謎も解ける。たとえ(ありえないけど)政府が関与していなかったとしても、アメリカって怖ろしい国だなぁと思うことしきり。

11月23日
  ▼韓国の全斗換大統領が一族の不正を謝罪(1988)
  全財産139億ウォンを国庫に献納し、江原道山中の寺へ幽閉同様の蟄居を余儀なくされます。90年10月には開放されてソウルへ戻るんだけど、95年10月に金泳三大統領が慮泰愚前大統領の秘密資金を摘発。遡及法を制定して粛軍クーデタ責任と在任中の不正蓄財の解明を進め、二人を逮捕しちゃう(全は死刑、盧は懲役22年)。韓国の歴代大統領はいつも前任者をこんなカタチで処罰したりしてるんだけど、それって自分で自分の首を絞めてるような気がしないでもない。ある意味健全とも言えるんだろうけど、大統領に就任するって言うことは自分も同じ様な目に遭う可能性が高いってことを自覚しなきゃならない。まぁ韓国大統領なんて慮泰愚が当選した大統領選以来、慮泰愚→金泳三→金大中って言う順番が決められてたような雰囲気がなきにしもあらずで、出来レース嫌いのわたしなんかにしたら呆れた対象でしかないんだけども。
  ▼Windows95日本語版が全国一斉に発売開始(1995)
  遅ればせながら村下もこの年の年末にPC購入。IBMのアプティバでした。DOSにすごい抵抗があったのでWinは馴染みやすかったのを思い出します。なんと最初に加入したプロバイダはMSN(当時はプロバイダ事業もやってたのだ)。アクセスポイントが遠すぎてインターネットはほとんどせず。もっぱらアクセスポイントが市内にあったパソコン通信やってましたですよ。Niftyserve(現@nifty)、PC-VAN(現BIGLOBE)、今は亡きPeopleと渡り歩いた後、定住したのがNifty。今でも当時のことを思い出すと顔から火が出そうです。厨房なんてレベルじゃなかったもんなぁ・・・

11月24日  

11月25日
  ▼皇太子裕仁親王が摂政に就任(1921)
  言うまでもなく後の昭和天皇。大正天皇が脳の病によって天皇職務を遂行できなくなったため、とのこと。病と言うよりも先天的な障害だと思うんだけどね。大日本帝国憲法ができるまではかなり皇位継承権にも柔軟性があったんだけど、天皇家の神格化と共に大正天皇のような天皇にはどうにも対応できないような制度になっちゃったっていう。
そういう様々な問題に対して柔軟に対応してきた皇室なんだけど、唯一守ってるのが男系相続ということ。それを捨て去ることは日本の歴史すら捨てることだとなぜわからないんだろう?
  ▼ムッソリーニ、国王と議会から独裁権を与えられる(1922)
  この人最初は社会主義を唱えて社会党に入党していた。でも第一次大戦時は方向を180度変えて国粋主義者に。大戦後に軍人や右翼学生を集めて「戦闘ファッショ」を組織、「全国ファシスト党」に改組した後にローマへ進軍し遂に政権を獲得します。ただ悲しいかな彼は民主主義や共産主義に対する攻撃くらいしか具体的な政策が無かった訳で。第二次大戦では英米のシシリア島上陸で一時失脚するけど、スグにドイツの手によって救出され、北イタリア共和国を樹立する。でもそんな政権で戦力的足しになる訳もなく。独軍の敗走と共に崩壊しちゃう。最後は銃殺されてミラノのロレート広場で逆さ吊りにされるんだけど、そもそも支持する人がいなければ政権を取ることもできない訳で。ナチスにしろ戦前の日本にしろ、国家の方針に諸手をあげて賛成した人間も多いんだな。一部の人間だけが暴走したんじゃないってことはしっかり覚えておく必要あるんじゃないかな、と。

11月26日

11月27日

11月28日

11月29日

11月30日  

 

         
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