10月

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  ▼淳仁天皇廃位(764)
  最高権力者、主権者が誰に廃されるんだ?ってお話もあったりしますが、藤原仲麻呂の乱に連座させられた格好になった模様。同時に孝謙上皇が重祚して第48代天皇・称徳天皇となります。称徳はダンナさんもいないので当然子供もいないから彼女の血を受け継ぐ人間はいません。実はここで遂に天武系天皇の直系が窮まっちゃうんですね。次の桓武天皇は全てを一新する為に平安遷都を断行することとなるんですが、そうまでしなければどうにもならないところにまで当時の政体は澱みきってたってのを伺わせます。道鏡の登場がそれを象徴してますけど、ま、彼と称徳との関係はいろいろと取り沙汰されてますが、阿倍内親王(称徳のコト)時代から孤独だったと思いますですよ、称徳。責められることもあるだろーけどわかってあげて欲しいなぁって個人的には思ったりします。
あまり語り過ぎると歴史サイトのはずが違うサイトになっちゃいそーなので割愛。艶方面のお話は面白いんだけどね。何やらあちこちの学校からLINKされてるよーなので自粛してみたりなんかして。
あ、でもウチに書いてることを真に受けないようにね>がくせーさんたち。
  ▼ビルマのラングーンで爆弾テロ発生(1983)
  折しもビルマには韓国の全斗煥大統領が訪問中(この場合訪ビって言うのか???)。テロのあったアウンサン廟(殉難者廟)では主要閣僚4人を含む21人が死亡。世界を揺るがす大事件となった。当初から北朝鮮の関与説、韓国の反政府勢力の犯行説、ビルマ国内のカレン族などの少数民族反乱勢力、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党、ネ・ウィン前大統領に次ぐビルマNO.2と目されながら当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ、更には全斗煥大統領の自作自演説などの憶測が飛び交ったんだけどどれもこれも無理があって、やっぱ状況証拠や証言で言えば北の仕業ってのが一番無理がない。それどころか一番説得力を持ってる。
例の拉致問題もそうなんだけど、このテロにしたって実行部隊の「特殊第八軍団」は労働党中央軍事委員会直属の「偵察局」の指揮下で動いていた訳で、偵察局の最高指揮官は金正日書記だった訳で。党と軍部のTOPを兼ねる金親子が「知らなかった」じゃ済まされないでしょ、と。責任ってそーゆーもんじゃないよ。
この期に及んでも尚社民党や共産党は事実認識を改めようとしない。ソ連崩壊後どんどん主張が曖昧になっていく彼らだけど、もはや依って立つべき理論もない彼らがこれらの北がやってきた一連の事件を一体どうやって総括してくれるのかを村下は楽しみに待ってるのであります。政治家ならずとも当時日本中に溢れかえっていた左翼な人たちは、自分たちがしてきたこと主張してきたことの説明をする必要あるでしょ、と。「あの頃は思想に燃えてたな〜」程度の述懐ごときじゃわたしらは納得できないんだな。
  ▼宇宙戦艦ヤマト発進(2199)
  目的地はイスカンダル。放射能除去装置だっけ?取りに行くお話。なんかすごい無理のある設定だったように思うんだけど詳細は失念。ってゆーか村下はガンダム世代なのでヤマトはいまいちわからなかったり。むかしの裁判で著作権の帰属が松本零士氏じゃなくて西崎義展氏ってことになった。今でこそ原作付きのものを映像化した時のファンの割り切り方ってとってもあっさりしたものがあるんだけど、当時はやれ原作とあそこが違うここが違うってのがどんな作品でも必ずあったように記憶してます。まぁ実写にしろアニメーションにしろ技術的なものに限界があったってのはあるんだけども。しかしこのヤマトについてはどうなんですかねぇ、そりゃヤマト=松本零士ではあった訳だけど、ヤマトを創ったのは誰か?ってなると西崎氏ってのが当時からあったコンセンサスじゃないの?って感じで、わたしなんかからすればあの判決も「何を今更」だったんですけどねぇ。
この手の問題って言うのは最終的に「原作とアニメは別世界」ってなあたりにいつも軟着陸してて、あまりにも原作と違う時はそうでもしないとどうにもならないみたいな面があったように記憶してます。ガンダムの小説なんてすごいことになっちゃってるんだし。ってゆーか、ヤマトに関して言えば原作と言えるような原作があるかと言われると疑問なんですよね。イヤ、原案的なモノはあるけどそれをもって「あの」ヤマトの原作だって言うのは恐ろしく無理があるような気が。
マスコミには松本氏ばっかり露出(もちろんあのビジュアルで)してたし、絵があの独特な松本キャラなだけに一般的にはヤマト=松本零士って強烈にインプットされてたんだけど、実質ヤマトを作ってたのは西崎氏だってのは知る人ぞ知る事実だったんだし。
でもサ、裁判の結果云々ではなくって「新ヤマト」絡みかなんだか知らないけど、なーんかお金絡みのイヤラシイ魂胆が見え隠れしてて見てて気分悪いのはわたしだけなんでしょーか?
松本零士、ますますキショくなってるし。少女漫画家みたいになれとは言わないけど(少女漫画家も違う意味でキショいんだけど)もうちょっと小綺麗にできないものか?

10月10日

10月11日

10月12日  

10月13日

10月14日  

10月15日  
  ▼中臣鎌足、藤原の姓を賜る(669)
  大化改新は講義でやってる通りとして、元々中臣氏ってのは大王家の祭祀的なことを仕切る家だった訳です。鎌足も中臣家の長子として皇極3(644)年神祇伯に任じられるんですが、病と称して出仕せず隠遁生活を開始します。大化改新がおこるのはまさにその翌年。
実は政教分離ってこの当時から(むしろこの当時の方が)はっきりしてて鎌足が辞退した役職は政治の中枢からは距離を取ってあるものなんですね。鎌足の行動もそうだし不比等の行動もそうなんですが、どうも意図的に中臣氏から離れようとしていたように見えます。中臣氏と距離を置き政治の中枢へ食い込んでいく、その最終仕上げが藤原姓下賜による完全な中臣氏からの独立だったんですね。鎌足が欲しかったのは大織冠でも内大臣でもなく、臨終に際してようやく手に入れた新姓だったと。
  ▼佐藤義家、出家する(1140)
  これが「山家集」で有名な西行法師。元々は教科書にも出てくる北面の武士。 鳥羽上皇へ仕えて左兵衛尉にまでなるけど23歳にして真言宗にて出家。
出家する前から和歌を詠んでいたようなので、元々武よりも文な人だったんでしょうね。
「山家集」は六家集のひとつに数えられてますが、いまいちメジャーとはいえないこの六家集。テストに出すには最適でしょうねぇ(謎)
  ▼グレゴリオ暦施行(1582)
  わかりやすく言えば、西暦年数が4の倍数である年は閏年とするって決めたってこと。
325年、ニケーアの宗教会議で復活祭の日を春分の日とし、それは毎年3月21日と定めました。しかしユリウス暦でやってると1582年は実際の春分の日は3月11日になっちゃう。だから決議を守るためローマ教皇グレゴリウス13世は、1582年の10月5日から14日までの10日間を暦日から除いた上で、将来再びこのようなことが起らないように「西暦年数が4の倍数になる年を閏年とする。」と決めたんです。これが現在も使われているグレゴリオ暦。
ただしこれには「100の倍数の場合、これを100で除した商が4の倍数でない年は平年とする。」という例外も規定されてます。
実はこれがグレゴリオ暦の大きなポイントでありまして、たとえば1700年、1800年、1900年は100で割った答えが17、18、19で4の倍数じゃありませんので通常ならば4年周期の閏年に当たりハズなのに平年となったんですねぇ。(2000年は100で割れば20になって4の倍数になるので通常通り閏年が適用されました)
  ▼ゾルゲ事件で尾崎秀実が逮捕(1941)
  コミンテルン本部の指令により1933年新聞記者として来日したゾルゲは、近衛首相のブレーン・トラストだった尾崎秀実と接触し日本の最高機密を入手しソ連へ送ったとされます。これがいわゆる「ゾルゲ事件」と言われるモノ。この日、尾崎が逮捕され18日にはゾルゲが逮捕されます。
新聞報道は対米開戦前で国民の士気に関わるとのことで1942年5月まで解禁されす。それも逮捕理由は伏せられたまま。
当時はドイツが対ソ戦を開始し、とうとうモスクワの目の前にまで迫っていた時期。日本がどう動くかは世界が大注目し、ソ連にとっては実は生きるか死ぬかの大問題だったんです。
そこにゾルゲから「日本は南進を決定、ソ連攻撃の意図は全くなし」との情報が入ってくる。この情報によってスターリンは心おきなく極東へ配備していた兵力を全面的に対独戦へ向けられることになるんですね。これが独ソ戦の勝敗を決めちゃう。それはすなわちドイツの敗走と欧州戦線の縮小による対日戦力の強化をもたらし枢軸側の敗北を決定付けてしまう訳で。
元々が防共協定だった三国同盟。にも関わらず最大の敵であるソ連と独ソ不可侵条約だの日ソ中立条約だの締結していたのは、当時この日独ソの三国がまさに絶妙なバランスを取りあっていたからなんですね。どの国も永久にそれが続くと思ってなくて(日本は知らないけど)、いずれ雌雄を決するための条約というか。
そのバランスを逆に利用することでヒトラーは対ソ戦を決定したし、日本は南進を決定できた。これはソ連が日独の手の内が見えないからこそ成立する話なのです。
ちなみに長く支持されていた日本共産党党員だった伊藤律の証言がゾルゲ事件発覚の端緒って説は、戦後の中国共産党も巻き込んだ日本共産党内の権力闘争の副産物風味満載って感じでムラシタ的には否定的。伊藤律って人は戦前に共産党を離れて権力側にすり寄った、みたいな過去があるんだけど、野坂ごときにどうのこうの言われるようなモノでもなく。と言うか自身の権力維持のために仲間の過去を晒してどうのこうのしようってのが気にくわないねぇ。
日独ソと三国の狭間を揺れ動いたゾルゲとか、その後の共産党の内部抗争なんてのはとっても面白そうなネタでして、これは講義でも取り上げてみたいと思ってる(と言うか今思った)今日この頃です。

10月16日
  ▼藤原鎌足、没(669)
  藤原姓を受けたその翌日の出来事。大化改新に際して左大臣右大臣とともに新設された内臣に就任した鎌足だけど、これは常置の官と言う規定もなく、その職掌は明らかでない。後年の内大臣に比較されることが多いんですが、どうもこの内臣自体あったかどうかもあやしくなってきている。鎌足臨終に際して「大織冠・内大臣・藤原姓」が贈られたあたりから創作されたとの見方もあったり。鎌足が関わった施策の悉くがあやしいこともあって、あの藤原氏の祖とは言うものの謎だらけ。
実は意図的に謎だらけしようと仕向けられたと言う噂もあったりなかったり。
  ▼中国が初の核実験を行う(1964)
  場所は中国北西部、新疆ウイグル自治区の南部にあるタクラマカン砂漠。原子爆弾の開発・製造技術はソ連提供のモノらしい。この原子爆弾は広島に落ちたモノと同程度だとか。
日本の中国へのODA額は他国とは比較にならない額だったんだけど、ソ連崩壊によって世界秩序が大きく変わった時、中国が潜在仮想敵国としていたのは何を隠そう日本に他ならなかったという。なんで中国の軍事力増強に日本が荷担しなきゃなんないんだ?とひとり憤慨してたものです。
さて、「唯一の被爆国」という表現をよく使うけど、今まで「唯一の被爆国」は一体何をやってきたのか?と思うとはなはだ疑問があったり。「核はこれだけ悲惨なんですよ」、「戦争は何も生み出しませんよ」etc・・・。もはや核は直接兵器ではなく間接的な政治手段のひとつとして機能してる。「使うこと」じゃなくって「持つこと」が意味をなしてるんです。さぁ、実はここで「核はこれだけ云々」「戦争は何も云々」が活きてきてしまってるんですね。彼ら核保有国は広島や長崎を逆に利用してるってワケ。核の悲惨さを訴えれば訴えるほど「核を持つこと」の意味が増しちゃうんですよ。だいたいが・・・(以下村下が暴走しすぎた為割愛)

10月17日  
  ▼アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の緊急閣僚会議で原油生産削減、供給制限を決定(1973)
  同じく石油輸出国機構(OPEC)も同様の決議を行ってて、原油価格はそれまでの2ドルだったものが最終的に40ドルにまで跳ね上がります。これが直接の原因となってオイルショックが起こるんですね。なぜこんなことやったのか?もちろん利益を上げようって言うのもあるにはあったんだけど、最大の目的は第4次中東戦争でイスラエルを支援する国家に対して石油の禁輸やら輸出削減を行うことでイスラエルに間接的な圧力をかけようってのが狙い。石油を武器として使おうってことですね。当時はエネルギーと言えば石油だった訳で、それを牛耳るアラブ諸国に世界経済は支配されていたと言っても良いくらいだったんですね。脱化石燃料が真剣に検討され始めたのもこの頃。ま、いつまでもアラブ諸国のやりたいようにされるのはムカつくし、いずれは枯渇しちゃうんだからこの流れは当然と言えば当然なお話なんだけどね。当時の日本は折しも田中首相の「列島改造」が一世を風靡してる頃。まさに絶賛発売中。そこへただでさえ物価が上がってるのにこのオイルショックだったので、経済は大混乱を起こしてしまった。これを乗り切るために田中内閣は米追従のイスラエル寄り政策を転換してアラブ諸国寄りになり、外資頼りの石油事業から「日の丸石油」と言われる民族系資本開発へ力を入れるようになったのです。ロッキード事件の発端が米下院での証言からだったこともあって、田中角栄失脚は米政府や石油メジャー、イスラエル、国際ユダヤ資本の陰謀だとも言われる原因にはこの政策転換があるんですね。

10月18日

10月19日  

10月20日  

10月21日
  ▼神風特別攻撃隊、初出撃(1944)
  第2次世界大戦も末期、日本海軍によって編成された特別攻撃隊の総称。
同年10月連合軍総司令官マッカーサーの威信を賭けたフィリピン反攻によって、日本連合艦隊は事実上壊滅します。
米航空機の最新鋭装備に対して日本の航空機は名機と呼ばれた零戦も既にロートル、ベテランパイロットもそれまでの戦闘で多くを失い、もはや制空権など皆無に等しかった。そこで第1航空艦隊司令長官大西滝治郎中将が歴史に残る発案をします。「いずれにしても生還を期待できないならば、小数機によって防空陣を突破し体当り攻撃によって戦果を確実にすべき」
本人もこの作戦は天皇の持つ統帥権を完全に逸脱することはわかっていたらしい。ただただ戦後の「国体の護持」を考えてのことだったとか。
とてもじゃないけどあっさり終わるようなお話じゃありませんので講義でやります。
  ▼朝永振一郎、ノーベル物理学賞を受賞(1965)
  1943年に自身が発表した「超多時間理論」を発展させた「くりこみ理論」を1947年に発表。この年同じ「くりこみ理論」を発表していたJ・シュウィンガー、R・ファインマンとともにノーベル物理学賞を受賞します。
量子論を突き詰めれば一般相対性理論との関連性に行き着く訳だけど、ここは最先端の科学だけにムラシタには敷居が高すぎますw。いつものように強引にわかりやすくするとすれば、くりこみ理論ってのは量子電磁力学の中のひとつの考え方で、その量子電磁力学というのは素粒子論の中のひとつの表現方法と思って下さい。素粒子ってのはその性格上、計算して出る値がしばしば無限大になります。その無限大の量から必要部分だけを抜き出す方法がくりこみ理論と思ってもらえれば良いかと。(ホントは良くないんだけど)
これによって量子力学は大きな進歩を遂げる訳です。ちなみに一緒に受賞した2人は一緒に研究していた訳ではなく、互いに別々のアプローチから研究・発表してたりします。

10月22日

10月23日
  ▼フランク生まれる(1908)
  旧ソ連の物理学者。チェレンコフ放射の理論で1958年ノーベル物理学賞を受賞。チェレンコフ放射ってのは、真空じゃなくって例えば大気中なんかを光が通る時に屈折率が高かったりなんかした場合、光じゃない粒子の方が光よりも速くなったりすることがある。こんな時、その粒子が移動することによって磁場ができるんだけど、この磁場の生成よりも粒子の速度の方が速いために磁場がおいてけぼりをくらうんです。置いていかれたことによって磁場は電磁波になるんですね。これは後ろに引きずるような光のあとを示すことからチェレンコフ放射って言われてるんです。1934年にチェレンコフによって観測されたんだけど、フランクはこれを理論的に証明したんですね。イメージ的には衝撃波とかなり似てますかね。専門家じゃなければ衝撃波が音速、こっちが光速と覚えておけば十分すぎるでしょう。「よくわかんないけど衝撃波みたいなモンじゃなかったっけ?」みたいな感じで(笑)
ってゆーか、村下はこーゆーのを覚えたくないから文系に進んだのです。
  ▼ハンガリー動乱(1956)
  ブダペストの学生、労働者のデモをきっかけとして起り約2ヵ月間続いた暴動のこと。ポーランドの十月政変に刺激されたハンガリーの大衆が同月23日ナジ内閣の樹立とソ連軍の撤退を要求してデモを行い始める。ただ軍隊や警察は大衆側に極めて同情的で鎮圧が困難となってしまいます。その結果24日ナジ内閣が成立。25日にはカーダールが党第一書記となる。30日にはソ連が過去の政策を反省する政府声明を発表、撤兵を表明したんだけど同時に国境を越えて部隊を注入しはじめちゃう。そんな中で反乱側の主導権は次第に右派の手に移ってく。その要求に押されてナジ政府は11月1日にワルシャワ条約機構WTOからの脱退、中立宣言、国連による保障要求を発表しちゃうと。
ここにきて東欧各国への事態の波及と、スエズ戦争への自国の影響力の弱体化を恐れたソ連は4日に本格的な第2次軍事介入を開始する。それ以降12月にかけてソ連の徹底した軍事行動が行われ、反乱は多くの死者を出して鎮圧された。ナジは一時ユーゴ大使館に逃れたが連れ出されて処刑された。これがハンガリー動乱の顛末。
ある意味スターリンによる周辺国も巻き込んだ圧倒的な独裁体勢の反動みたいなモノと言えるカモ。このハンガリー動乱にはスターリン死去とフルシチョフのスターリン批判が重要な意味をなしている。東欧周辺諸国との関係改善を図っていたソ連指導部では、和解のためにはソ連側がスターリンを批判することが不可欠と考えられるようになってた。その中で1956年のソ連共産党第20回大会の席上でフルシチョフが行った「スターリン批判」がある。実はこのスターリン批判ってのは公開のモノじゃなくって「秘密会」っていう場で行われたんだけどね。(米国務省が報告を入手して英訳を公表した。)
この演説によって、東欧諸国でスターリンの威を借りて君臨していた「小スターリン」たちが一気にソ連という後ろ盾を失っちゃったと。ハンガリーのみならずこの時期東欧諸国の政権が大いに揺れたのはこーゆー事情があったんなんですね。

10月24日  

10月25日

10月26日
  ▼観応の擾乱(1350)
  室町幕府の重臣、高師直と足利直義の対立が直接原因。そもそも室町幕府は尊氏の武家棟梁として主従制的支配権と直義の政務総括という二頭政治がベースになっていた訳だけど、ここへ高師直が尊氏の執事として幕政へ関与していくことで直義との対立が深まったというのがポイントでしょうか。
直義は尊氏に次ぐ血筋だし尊氏の一連の軍事行動にも重要な補佐役として加わっていた。対する師直も足利家に仕える家臣としては最上位だった訳で、いわば尊氏を筆頭に直義と師直の2系統に分かれてると言う感じ。
この2人の対立はやがて直義と尊氏の抗争に進展し、幕府は両党分裂に陥ります。直義は機先を制して尊氏に迫り師直の執事職を罷免させますが、師直はクーデターを敢行、直義の地位を義詮へ譲らせ師直は執事に返り咲きます。
同年直義側は挙兵し第1次分裂が起こります。戦いは終始直義に有利に展開し、翌年2月師直らの出家を条件に和議が成立し、師直は上杉能憲に殺されます。この間直義は南朝と和睦しますがまもなく決裂、7月末には情勢の不利を悟った直義が京都を出奔し第2次分裂となります。ここで尊氏は南朝と和議を結び直義追討の綸旨をもらって直義追討へ向かいます。直義は上杉憲顕らに迎えられ鎌倉で政務をとりますが、翌年2月死亡します。結局これによって尊氏と直義の対立は終わりを見るんですが、直義の養子直冬を中心とした直義党は南北朝時代ひとつの勢力として幕府を悩ませ続けることになる訳ですね。
  ▼伊藤博文、ハルビンで射殺される(1909)
  日露戦争後、初代韓国統監となって日韓併合を工作。この日、日露協商締結交渉のためロシア訪問の途中ハルビン駅頭で日韓併合に反対する韓国青年安重根に暗殺されます。日本政府はこれを口実に一気に日韓併合を断行します。伊藤博文は押しも押されぬ日本政府の大重鎮だけど、裏でいろいろな人が暗躍して伊藤暗殺へ動いたって噂は後を絶たず。伊藤本人は日韓併合には反対だったとかいう話もあって日本政府との温度差があったことは否めないんですね。
  ▼朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺される(1979)
  1961年5月の軍事クーデター首謀者でクーデター成功後は国家再建最高会議議長、大統領権限代行を経て1963年10月に民政復帰とともに第5代大統領に当選、1967年5月再選、更には3選を禁止した憲法を改正して1971年4月3選を果たした朴大統領がこの日部下の金載圭中央情報部長によって射殺される。
5ヵ年計画などで急速な経済成長を推進する一方で「八・一五宣言」で南北朝鮮の対話を呼びかけ、1971年南北赤十字会談を経て1972年7月4日の南北共同声明を生み出したりと南北関係の改善に努めた人。
ただその一方では1972年10月に戒厳令を敷いて「十月維新」を断行、新設された統一主体国民会議によって重任の制限のない大統領に選出されます。やりたい放題。
その治績に対しては今でも韓国で評価が大きく分れてるらしい。なんでも軍人が政治に関与したことが問題になっているらしいけど、盧泰愚までみんな軍人だったじゃん!みたいな。
ちなみに朴大統領暗殺事件の合同捜査本部長となった全斗煥(チョン・ドファン)は次期政権を握った人。
ムラシタが何を言いたいかはおわかりかと。

10月27日
  ▼安政の大獄(1859)
  処刑された中で有名どころとしては、高杉晋作や伊藤博文を生み出した松下村塾を作った吉田松陰でしょうか。表向きは当時の老中、間部詮勝の暗殺計画に対する処罰ってことになってるんだけど、実際は幕府が独断で日米修好通商条約に調印したことで朝廷が水戸藩に対して倒幕の密勅を下したことをきっかけとして、将軍継嗣問題で主導権を握った井伊直弼が反対勢力を一気に粛正したっていう外交問題と内政問題が絡み合った事件だった訳です。これが後の桜田門外の変へ直接つながる事件だったことはほぼ間違いないところなんだけど、国際社会(と言うか対米だけだけど)を意識せざるを得ない幕府と、世間知らずのお公家様&諸藩の感覚の差が出るのも当然といえば当然のことで。
そもそも日米和親&通商条約の調印に朝廷や諸侯の意見を聞こうとした時点で調子に乗らせてしまったのが失敗だったかな、みたいな。結局は世界を知った尊攘派は軒並み開国へ傾く訳で、幕府としての決定と後の倒幕派の連中との考え方にさほどの差異はなかったという。
頼るべき孝明天皇がガチガチの攘夷論者だったというのも関係してる訳だけど、ここから維新の間の動きは同じ人間でも言ってることがコロコロ変わったりしますので流してると訳わかんなくなります。要注意。

10月28日
  ▼榎本三恵子、ハチのひと刺し(1981)
  東京地裁で開かれたロッキード事件丸紅ルート公判で元首相秘書官夫人の榎本三恵子が出廷して元秘書官が5億円受領を認める発言をしていたことを証言した後「ハチは一度刺したら死ぬというが自分も同じ気持ち」と心境を語ったことで流行語になった。
ロッキード事件と言うのは1976年2月に発覚したもので、そもそもは米ロッキード社が自社の航空機を各国首脳へ売り込むための贈賄工作などを記した極秘資料を、「間違えて」米上院外交委員会多国籍企業活動調査小委員会へ「誤配」されたことがきっかけって「言われてる」。(多くは語れない) 日本へも全日空や丸紅、右翼の超大物だった児玉誉士夫の3つのルートを通じて総額30億円の資金を投入したアプローチがあったようで、捜査もその3ルートから行われてた。最近ではもうロッキード事件の報道もされないけど、よく言われていた「丸紅ルート」とかってのはこのことなんですね。田中角栄元首相の逮捕にまで及んだ事件の詳細は長くなるのでまた別の機会に。

10月29日
  ▼スエズ動乱始まる(1956)
  10月26日にスエズ運河の国有化を宣言したエジプトに対してイスラエル軍が侵攻した日。続いて英・仏も進撃し国際的な緊張状態になりました。これをスエズ動乱と呼びます。第二次中東戦争といわれるのがコレ。
そもそもナセル大統領はアジア=アフリカ会議(1955年4月)に出席した時に周恩来やネルーと会談して影響を受けまくっちゃった訳です。積極的中立を唱えてバグダード条約機構(中東条約機構)への加入も拒否して、その一方でソ連からの軍事援助の約束も取り付けるし中華人民共和国を承認したりとどう見ても社会主義陣営国へ接近してるようにしか見えなかった。そんなところに協力する訳にはいかないってことで米英は1956年7月にアスワン=ハイダムへの建設援助を撤回する。それじゃあとばかりにナセルも1956年7月26日(革命記念日)にスエズ運河の国有化を宣言して、運河の国有化によって得られる収入をアスワン=ハイダムの建設資金に充てると言い出す。
スエズ運河会社の二大株主だった英仏は国連安全保障理事会に提訴して、とりあえず外相会議でスエズ運河利用の三原則については合意するんだけど、運河を国際管理下に置くという案は安全保障理事会でイスラエル以外のアラブ諸国と関係の深いソ連の拒否権発動で廃案になっちゃう。
そんな中のイスラエルの侵攻。もちろんバックには英仏。イスラエル建国っていうのは主に西側にとっては良いように使える駒を作りたかったってことになるんだけど、おそらくそういう風に使われた最後の例がこれじゃないかな?と思う次第です。ただこんなのを国際社会が放っておく訳もなく、国連の緊急特別総会が開かれ11月2日に即時停戦とイスラエル軍、英仏軍の撤退を要求する決議案を採択。さらに同月5日に国連緊急軍を派遣することをも承認します。
当時アラブに利権を持ってなかったアメリカまでもがアラブ支持を表明するに至っては、英仏も折れざるを得なくなった訳ですな。これによって中東で絶大な影響力を持っていた英仏に代わりソ連が巾を利かせるという構図ができあがった訳です。

10月30日  

10月31日  
  ▼劉少奇失脚(1968)
  読みはリュウ・シャオ・キかな。1959年の毛沢東引退によって国家主席、65年に国防委員会主席となって中国の最高権力者になります。でも社会主義建設に於いては重工業優先・エリート尊重と言った考え方だったようで、このあたりが毛沢東のご機嫌に召さなかった模様。66年から始まった文化大革命では「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」とか「中国のフルシチョフ」とか言われて徹底的な批判を受けちゃう。文革が毛沢東の意向だったのは今更言うまでもないことだけど、既に圧倒的なカリスマだった毛沢東をしてもここまでの大規模なキャンペーンを張らなければ最高権力者をたたき落とすことができないんだなってのを思うと権力集中の独裁国家とは恐ろしいものですな。
1968年十二中全会で正式に中国共産党から除名され翌年には投獄。失意のままお亡くなりに。その後、同じく文革で叩かれまくったト小平(よく無事に政界復帰して頂点まで上り詰めたなって思う)が中国の最高権力者になる頃には名誉回復されるんだけど、実際のところトのおじいちゃんもやりきれなかったでしょうな。中国の今の状況を見ていると余計にそう思っちゃうわけでございます。
  ▼インド、インディラ・ガンジー首相暗殺(1984)
  ガンジーってもあのおじいちゃんじゃなくってこの人はネルーの娘。ガンジー姓ってのはインドの政治家に多いんだけど、あのマハトマ・ガンジーとはぜ〜んぜん関係ないのでそこんとこよろしく、みたいな。
1966年シャストリ首相急死を受けて第3代首相に。69年にとっても社会主義寄りな政綱を打ち出して反対派を切り捨て、71年の総選挙で圧勝、同年のバングラデシュ独立戦争にも介入して国内でも大人気だったんだけど、権力を持って来るとだんだん強圧的になってくるものらしく、77年に政界引退に追い込まれる。
それでも80年の総選挙には再び復帰して圧勝。ちゃっかりと第6代首相に返り咲きを果たしちゃう。人材が居なかったのかのど元過ぎて熱さを忘れたのか・・・。
パンジャブ州などで州分離要求や社会経済的対立が激化する中、同州出身の2人のシーク教徒護衛兵により官邸で射殺。これをきっかけとしてインド全土でヒンドゥー教徒とシーク教徒の暴動が拡大していきます。
パキスタンやバングラデシュの独立がそうですが、このあたりのイザコザは全部宗教的な考え方の違いへ帰結しちゃいます。それは国家さえも動かしていく訳ですね。
そういうところからもっとも遠いところにいる脳天気な日本人としては理解しがたい面もあるんですが、突き詰めていけばそれこそが人間を行動させる根本なのかもしれませんね。
ちなみに日本人にとってのインド人の象徴であるターバンを巻いてるのはシーク教徒で、ヒンドゥー教徒はターバンを巻きません。インドの方って割とよく日本に来てらっしゃいますので覚えておいて損は無いかと。

 

         
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