6月

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6月1日   
  ▼戊戌の変法(1898)
  清朝第9代皇帝、光緒帝(徳宗)が「明定国是詔」を下して清朝の政治改革に着手。光緒帝は即位当時はまだ幼年だったんですが、成長するにつれ西太后の垂簾政治から距離を置くことで親政へ意欲を持ち始めます。そこへ目をつけたのが康有為。日清戦争の敗北によって現実に目覚め始めた人がいたってことですね。しかし彼らの改革も西太后に代表される保守派のクーデターにより失敗に終わります。光緒帝は幽閉され再び西太后に実権が戻ります。この一連の事件によって上からの改革に限界を感じた改革派は下からの改革へとその活動をシフトさせていきます。これが義和団の乱につながり辛亥革命へつながって行くんですね。
  ▼田中角栄通産大臣、自民総裁選にあたり「日本列島改造論」を上梓(1972)
  不快な都市生活をおくる人たち(田舎出身者も都会生まれの人間も)が、「帰る場所」としての昔ながらの「田舎」という位置づけをし、その為の手段としての道路や鉄道やトンネルなど全国的な交通・通信網の整備を訴えたのが列島改造論。文章はざーとらしく下品な文体で書かれてるけどそれが逆に彼特有(ハマコーやムネオなんかに引き継がれてた)の浪花節を一層際だたせてる。どこをどう捉えたらそうなるのかわからないけど、一極集中緩和の面からも大きな支持を得たらしい。
(ナント、田中内閣発足時の支持率は80%を越える)
しかし一連の政治活動が現在の諸悪の根元であるのはもう疑う余地のないところ。
実はかつての小泉内閣が提出した各種法案ってのは、諸悪の根元、列島改造論をうち破るどころか更に補完しかねないような案件だったり。彼が言うところの抵抗勢力的なモノって田中角栄によって確立された官僚や自民党(田中角栄はまさか官僚がここまで前に出てくるとは思ってなかったでしょうけど)を主軸とした完璧な利権構造だったんじゃないの?みたいな。先進国では異例とも言えるような国債格付けの低さと年々増えていく赤字国債の発行額、具体的な数字はわからないにしても明らかに不要と思われるようなお金の使い方。
なぜ彼やその後の民主党政権が期待されたかって、そう言う国民が知ってる断片的な情報から感じているそこはかとない不安を明らかにしてくれて、それをうち破ってくれそうってところにあったはずなんだけどな。

6月2日

6月3日

6月4日  

6月5日

6月6日

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6月11日

6月12日  

6月13日
  ▼犬上御田鍬を隋に派遣(614)
  最後の遣隋使にして最初の遣唐使が彼。小野妹子の方が有名(漢字変換も一発だし)だけど、試験に出る割合は圧倒的にこっちの方が上。どう考えても朝鮮半島沿いに進むのが安全なのに後期遣唐使は南シナ海を横断すると言う無謀な渡航をやっていた。それは当時朝鮮半島を統一した新羅とあまり良い関係ではなかった(日本は百済側についていたと言うのもあって)からと言われてる。その危険さは鑑真の来日への苦難を見れば一目瞭然な訳だけれども、それだけの危険を犯してまでも唐へ渡ったのはそれだけ唐に魅力があったから。なんせ当時唐は押しも押されぬアジアの盟主だし首都長安は世界最大の都市。シルクロードを経て各国の名品・珍品が集まり文化水準も抜きん出ていた。朝貢貿易によって得る利益も莫大な額になるし。弱小国日本としてはやはりそれだけのリスクを背負ってでも行くだけの価値があった訳。日本の独自文化が華咲く平安時代に遣唐使が廃止されたってのはある意味唐の限界みたいなものが出てきたんだろうな、と思わせたり。
  ▼唐、玄宗が楊貴妃を伴って都を脱出(756)
  楊貴妃の好物がライチだったと言うのは結構有名なお話。玄宗は楊貴妃の気をひくために遙か南方より莫大な費用をかけてライチを取り寄せていたとか。楊貴妃のおかげで楊氏一族は軒並み高官に就き、玄宗が政治への感心を失い社会が混乱の極みに達した756年、遂に安史の乱がおこります。
安禄山に追いつめられた玄宗は、反乱軍の標的は楊貴妃であると言う部下の主張に従うしかなく、楊貴妃をを縊殺させてしまいます。皇帝に就いた頃の玄宗は政治に意欲を持つ皇帝だったのに、たった1人の女性に惑わされへっぽこ皇帝になってしまったんですね。美しいって罪なのね・・・。ってゆーかオトコって単純なのね。
ちなみに村下みたいな人を「傾国」とか「傾城」って呼ぶのはこのあたりのお話から来ています。美しすぎると国まで滅ぼしてしまうって言う。
  ▼米の無人探査機「パイオニア10号」、太陽系を脱出(1983)
  パイオニア10号は1972年に打ち上げられた未知の知的生命体へメッセージを届けるための探査機。途中木星の観測をしつつ遂にこの日太陽系から離脱した。もっとも、パイオニア10号が最も近い恒星に近づくのは3万年以上先なんだけどね。知的生命体云々ってのは表向きでやっぱ主目的は木星あたりの探査だったと思われ。 戻してもしゃーないしそのまま適当に動かしたれや、みたいな。

6月14日  
  ▼普墺戦争はじまる(1866)
  ウィーン会議によって決められたドイツ連邦ってのはオーストリア、プロイセン他35の君主国と4自由都市から成る連邦国家だったんだけれど、その領域は旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していたからオーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きくてプロイセンも領土の約4分の1は連邦外にあるって言う連邦自体がいびつなモノになってしまってた。でも三月革命によってメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は完全に崩壊したのを契機にドイツ統一へと2つの意見が出てきます。それが、オーストリアの指導のもとでドイツ統一を実現しようとする大ドイツ主義とオーストリアを除外してプロイセンを中心にドイツの統一を達成しようとする小ドイツ主義。当時のプロイセン首相は「鉄血演説」で有名なビスマルク。彼はドイツ連邦議会にドイツ全国民の直接選挙により議会を召集するという革命的な提案を行うんですが、オーストリアはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン処理問題をドイツ連邦議会に提出しプロイセンとオーストリアの関係は決裂します。プロイセンはホルシュタインに兵を進め、ドイツ連邦議会はプロイセンに対する制裁を決議し、ここに普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)が始まります。
プロイセンは開戦と同時に鉄道を利用して電撃的な速さで兵力を集中して開戦後わずか50日でオーストリアを降伏させます。その後結ばれたプラハ条約によってドイツ連邦の解体とプロイセン指導下の北ドイツ連邦の設立が決定し、翌年北ドイツ連邦が成立します。一方、普墺戦争に敗れてドイツから除外されたオーストリアではハンガリーの自治が認められ、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世がハンガリー王を兼ね、別々の政府と国会を持つオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が成立するに至るんですね。
事実関係をかなり端折ってこの長さ。欧州関係は色々なお話が絡み合ってるので流れがわかってないとさっぱりです。世界史選択じゃなくて良かったヨ。。。
  ▼「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」(中ピ連)結成(1972)
  代表は榎美沙子氏。浅間山荘事件と同年の出来事だけに未だ学生運動の影響が色濃く残ってて、ピンクのヘルメットをかぶって他の集会に乱入したりなんかしてかなり過激だった。こう言う活動の印象から一般に「ピル解禁」という言葉がタブー視されるようになっちゃった。その頃服用されていたピルが高用量で副作用も強く、「ピル=危険な薬」というイメージも定着しちゃった。ちょっとタイミング悪かったって感じ。
ってゆーか、悲しいかな日本のフェミニズムてのは、女性=弱者・被害者って言う主張から未だに脱していなくて女性がSEXを楽しむことから目をそらし続けてる。だから女性が主体となるって発想は生まれないままここまで来てしまってる。中ピ連の結成から27年、1999年に遂にピルが解禁されたんだけど、それは女性運動の成果と言うよりもバイアグラの発売を急いだ厚生省の対抗措置的な空気がミエミエで。それまでな〜んにもやってなかった産婦人科学会も「医師の指導の元に」なんて金儲け主義に走っちゃうし。
ピルは女性の意志だけで男性に気づかれずにできる画期的な避妊方法なんだけど、わが国のフェミニズムってのはいまだに女性がセックスを謳歌することを許さない。SEXで女性も男性と対等になるためには女性の主体的な避妊が不可欠であるのに目をそらし続けている。だからいまでもピルについて語りたがらないんだな。
彼女(榎美沙子氏)はどうやら女性運動の歴史から抹殺されちゃってるようだけども、中ピ連こそ日本の女性運動の最先端を切り開いたもので真のフェミニズム運動だったような気がするんだが。あまりにも先鋭的な思想は往々にしてその反動をもたらすモノなんだけど、今の現状を見るに反動しっぱなしっては如何なものとか思うんだけどねぇ。なんかどんどん平塚らいてう方面へ向かってるって思うのはわたしだけ?
  ▼フォークランド紛争が停戦。アルゼンチン軍がイギリス軍に降伏(1982)
  南大西洋にある英領フォークランド諸島をアルゼンチン軍が占領したことに対し、サッチャー首相は遠征艦隊を派遣、同諸島を武力で奪還します。これがフォークランド紛争。
この戦いで英海軍に配備されて一躍注目されたのが戦闘機シーハリヤー。最高速度こそアルゼンチン軍のミラージュIIIに及ばないけど、この戦闘機は従来の戦闘機では不可能だった垂直離陸・上昇を可能にしてた。これが何を意味するかと言うと、戦闘機と戦闘機の戦いってのは相手の背後に回り込んでミサイルで撃墜というところから尻尾を狙う犬同士の喧嘩に例えてドッグファイトと呼ばれるモノなんだけど、高速で一気に接近をはかるミラージュVに背後をとられるとシーハリアーはジェット噴射で斜め上にジャンプしてミラージュVをやり過ごし、逆に背後をとるとサイドワインダー(ミサイルの名前)を浴びせるという戦法が取れるんですね。これで実にアルゼンチン機を23機撃墜すると言う大戦果。
これってどこかで似たような・・・って思ったら、零戦がその軽量を活かして上空へ旋回して相手の背後を取るって言う戦法そっくりじゃん、みたいな。同じやり方を強引にジェット戦闘機でやってるって感じ。
いつぞやのW杯、「フォークランド紛争からの因縁」なんて言ってましたが、マラドーナの神の手しかりフォークランド紛争しかりアルゼンチン側にばかり落ち度があるような気がしないでもないんですが・・・。村下はアルゼンチンを応援してたんですけどねぇ。

6月15日  

6月16日

6月17日  

6月18日
  ▼ナポレオン、イギリス・プロシアなどの連合軍にワーテルローの戦いで破れる(1816)
  これがいわゆるナポレオンの百日天下と言われるモノ。最初の皇帝の時の1812年に行ったロシア遠征失敗によって帝位を追われ、エルバ島に流されたんだけども、彼の失脚後に復活したブルボン朝のルイ18世に対する国民の不満を知って同島を脱出、フランスに戻って自由帝政を開始したナポレオン。でも結局ベルギーのワーテルローでイギリスの軍人で政治家のウェリントン率いる諸国連合軍と戦ったナポレオン軍は雨による泥道に苦しめられて敗退しちゃう。これによりナポレオンの百日天下は終止符が打たれ、セント・ヘレナ島に流されてしまいます。勝てば官軍ってゆーか、この時期の欧州で民衆が誰を支持しているかってのをつぶさに見ていくと辟易してきたりも。衆愚ってゆーか、当然って言えば当然なんだけど民衆=正義って訳ではないんですよね。そういう歴史を重ねてきて、民衆に大きく左右される(民主主義だけでなくって、たとえそれが帝政や王政であっても)政治の良さも悪さもわかってる国民と、そうでない国民との政治への関心なんてそりゃ大きく違いますわな、って感じ。
  ▼東京裁判のアメリカ側主席検事が天皇を戦争犯罪人として裁判しないと言明(1946)
  これは当時日本を事実上占領していた米軍、GHQの対日占領政策と東西冷戦が大きく作用している。GHQは占領下の政策を円滑に進めるために、国内に大きな動揺の走る天皇の処置をできるだけしない方向で動くし、アメリカそのものも冷戦の進行する中で裁判への興味を急速に失いつつあったらしい。他国がもっと関わっていれば当然天皇への戦争責任追及もあっただろうけど、裁判そのものがアメリカ主導で進められてたって事情もあったりして、GHQの意向がそのまま裁判へも反映されるって言う実にわかり易い図式ができてたりなんかしてる。
実はこのやり方ってのは日本国民にも大きな影響を与えてて、GHQの対日政策にはその初期から指導者と国民を区別するという意図が明確に現れてて、そこには陸海軍の軍人を中心にした国家指導者の戦争責任だけを追及するという基本方針が明確に現れてた。この方針は東京裁判の場でも貫かれて日本国民は「指導者達の犠牲」として語られた。こういうGHQの政策を多くの国民は肯定的に受け入れ(ま、自分に責任が及ばないから当然ですわな)日本国民もまた犠牲者であり、その支配者こそ責任者だという意識を深めちゃう。国民の間でも、侵略戦争の責任を国家指導者に帰する「指導者責任観」が確実に形成されていったんですね。ただここでいう「指導者」ってのは軍部(特に陸軍)であって穏健な政治指導者グループの戦争協力や戦争責任は問われない傾向だったのです。実はこの「指導者責任観」の形成が国民自身の戦争協力や戦争責任の問題に関する内省的な問い直しの方向には向わず、事実上この問題を棚上げにする方向へ向かってしまってるところに今でも戦争責任、賠償云々の話に対して明確な主張ができなくなる根拠だったりもするんですね。
さて天皇。そもそもポツダム宣言ってのは第六条で「自由国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯しめたるものの権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」として、日本の戦争指導者の責任を明らかにするとともに第十条で「吾等の俘虜を虐待せるものを含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰をくわえらるべし」と規定していた。ヴェルサイユ条約における最高責任者の処罰の定式化からこの規定が天皇の戦犯裁判の可能性を含むものであることは日本側もよーく理解されていたんだけど、やっぱりアメリカの政策上の配慮から天皇が戦犯として訴追されることはなかったんですね。指導者責任観と違法な国家命令に対する不服従の義務の問題も合わせてこのお話は長くなりそうなので(既に長くなってますが)本講義でやろうと思っております。
  ▼豊田商事の永野一男会長が、自宅に押し入った2人組に刺殺される(1985)
  そもそも「豊田商事」という名前にしたのは自動車会社がバックについていると錯覚させるためだとか。その手口と言うのが、顧客へ利殖のために純金の購入を勧める。そして顧客が金地金を購入してお金を殖やしてみようという気持ちになったら販売契約を結ぶけど、その契約の中には地金は同商事が預かり、その預かった金地金を運用して年10〜15%の運用益を出し、それを顧客に配当するというもの。でもこれって期限が来れば地金の購入代金を顧客に返還しなければならないし、顧客を無限に拡大しない限り破綻するのは当然のお話。えてしてありがちなんだけどこういう契約ってのは自分と契約会社の関係しか見えなくて、全体的な見方ができなくなってしまっちゃう。冷静になって一つずつ押さえて行けば誰でもわかることなのに。実は相手にそういう考える時間を与えずにどんどんまくしたてて契約取っちゃうってのが、セールスマンの契約取得必勝の方程式って言うか基本中の基本なんだけどね。
んで、この事件。前日に外為法違反で永野は事情聴取されてたりなんかして、自宅マンションのドア周辺に約30人の報道陣やガードマンが張り込んでいる中でおこった。のちに「フォーカス」誌上発表された自ら血しぶきを満面に浴び、砕けんばかりに歯をむき出しにした永野の断末魔の形相は戦慄以外の何者でもない訳で。それと同時に実際の殺人現場に居合わせながら至って冷静だった報道陣にはちょっと疑問なんかもあったり。
犯人は自称右翼で高齢者や身障者を従業員にもつ町工場を経営していた。「被害者6人から、もう金はいらんから、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや。ドアを開けんかい」、「これで死んどらんかったら、またやったる。87歳のボケ老人を騙しくさって、850万円も取ったやつやからな。当然の報いじゃ」こういう言動を見てもバックに組織的な動きがあったとかは考えにくくて正義感にかられた行動なんじゃないか、と思われたり。ま、それだけのひどいことをやってたってことですわな。

6月19日  
  ▼松平定信が老中首座となる(1787)
  これによって「寛政の改革」が開始されることに。三大改革とかって言われて有名なんだけど別に成功した訳でもない。松平定信のやったことってのはその前の老中首座田沼意次の反動みたいなモノだし。
確実に貨幣経済が形成されていく中、吉宗時代に開墾をやるだけやってしまってもはやそれ以上の収入が期待できないのにも関わらず未だに農本主義な政治改革なんかやってて効果があがるわけもなく。倹約を基本とした政策はただ単に経済の停滞を招くだけだった。よく言ってる事ですが、政治家ってのは本人の資質とか人格だとか清潔感だとかそんなモノで評価されるべきではなく、何をやったかそれのみが問われるべきであって。田沼意次が打ち出していた商業を基本とした政策にはかなり期待できる要素が大きかったってのは返す返すも残念な次第。
  ▼下田奉行・井上清直らと米・ハリス総領事が「日米修好通商条約」調印(1858)
  一般にこの条約に調印したのは井伊直弼の独断と言われているけど彼自身は勅許を待つ姿勢を貫いてて、直接ハリスとの交渉に当たっていた海防係の岩瀬忠震と井上清直に「なるべく延期を申し入れ、それが受け入れられない場合には調印しても良い」という指示を与えていたりする。でも実際に事の最前線にいる彼らの方がやっぱ危機感持ってて、二人は延期交渉をすることなく日米修好通商条約に調印しちゃった。いつの時代でもそうなんだけど、やっぱ最前線にいる人間と後ろでふんぞり返ってる人間とでは感覚も違う訳で。状況もわかんないのに「攘夷だ攘夷だ」って言うばっかりじゃ何も発展無いんですけどね〜。そう言う意味ではそれらの橋渡し的役目をしなきゃなんない井伊他の幕府のTOPはもうちょっと精力的に動くべきじゃなかったのかな〜?とも思ったり。京都には京都の、江戸には江戸の都合があるんだけどね。
  ▼マリアナ沖海戦(1944)
  史上最大の海戦と言われる。遂に大型爆撃機による直接の本土空襲ができるトラック・サイパン諸島まで米が迫って来た時に、日本が起死回生の一撃として発動させた作戦がこの海戦の基となる「あ」号作戦。ミッドウェーで機動艦隊の主力空母4隻を失った日本軍にとってはある意味最後のまともな戦いだったと言える。
「あ」号作戦って言うのは日本の艦載機と米の艦載機の航続距離の違いに目をつけて敵艦載機の航続距離外から攻撃を仕掛けると言う「アウトレンジ作戦」を基本とした攻撃だったんだけども、一見理にかなってるように思えるこの作戦、実は大きな落とし穴があった。と言うのも、アウトレンジ作戦を成功させるためには敵より先に発見し、出撃した攻撃機が長い距離を飛行して目標である機動部隊の上空に到達しなければならない。そして迎撃に上がってきた敵戦闘機を振り切り、さらに空母を取り囲んでいる護衛艦艇の対空砲火を突破し、目標の空母の対空砲火もかいくぐり、そして空母に魚雷・爆弾を投下して命中させることで始めてアウトレンジが成功したといえる。こんなの操縦士の技術と艦載機の性能の両方が圧倒的じゃないと無理だってば。
おまけに、遂に米はここで最新鋭レーダーを投入、敵を先に見つけるはずの日本側が先に見つかっちゃうし、更にこの戦闘より全てにおいて零戦の性能を上回る最新鋭戦闘機ヘルキャットを投入してる。それでもこのヘルキャットの猛攻を突破して、米機動部隊に襲いかかろうとする日本航空部隊に米機動部隊が行った対空射撃、この対空射撃は日本軍が知っている対空射撃ではなく「CIWS」と言うレーダを使った射撃システムによる恐ろしく精度の高いモノでした。もう良いよって言いたくなりますが更にもうひとつ。そのCIWSから撃たれる弾丸には全てVT信管(通称マジックヒューズ)って言うものが載ってて、信管自らが電波を発して敵を感知した(感知圏はナント2キロ!)場合信管が自動的に砲弾を炸裂させるって言うとんでもないモノだったのです。そりゃ勝ち目ないわ(+_+)
結局この戦いで航空機の大部分を失った日本海軍は再起不能の壊滅状態に陥ります。後はもう米のやりたい放題。

6月20日  
  ▼バレンヌ逃亡事件(1791)
  ルイ16世とマリー・アントワネットが革命中のパリから逃亡した事件。翌日国境附近のバレンヌで逮捕されパリに送還された。これで王室は完全に民衆の支持を失ったと言われてる。ただ、この事件が無くともロベスピエールは国王を処刑しようと考えていたと思われ、彼にとっては良い追い風と言うか、「よくぞやってくれた」的な行動だったんですね。
ちなみにアントワネットが言ったと言われてる「パンがなければケーキを食べれば良いじゃない」だけど、これはアントワネットのセリフじゃなくて、ジャン・ジャック・ルソーが「告白録」の中で「偉大な王女様」の言った言葉として書いたモノだったりする。(正しくは「ブリオッシュを食べればいい」)
  ▼徳川斉昭、幕府に幕政改革などを建白する「戊戌封事」を提出(1839)
  「烈公」と呼ばれた徳川斉昭。水野忠邦の天保の改革に先んずること3年、水戸藩で早くも改革に着手してる。その内容は結構水野のそれと似てたりなんかしてるんだけど、水野の改革がコケたのとは対照的にそれなりに効果をあげただけに調子に乗った(笑)斉昭は将軍(当時は徳川家慶)に対して「戊戌封事(ぼじゅつふうじ)」と言う建白書を提出するに至るのです。でも出る杭は打たれるとばかりに、天保15年に幕府から隠居謹慎を命ぜられちゃう。やっぱ御三家からそう言う批判が出てしまうってのを嫌ったんでしょうね。その後のペリー来航を契機に老中阿部正弘と連携して幕政参与したりもするんだけど大老・井伊直弼と対立するようになって、最後は水戸に永蟄居を命ぜられちゃうと。これが安政の大獄ですね。彼がもっと京都の勢力(幕府側・朝廷側双方)と話し合ったりする機会や、実際彼自身が京都へ出向くような機会があればまた情勢も変わったんじゃないかな〜なんて思ったりもする。兎にも角にも幕閣の京都音痴がもうちょっと改善されていれば、と。同じ事は京都にも言えるんだけどね。

6月21日
  ▼サルトル没(1905)
  「われ思う、ゆえにわれあり」の実存主義で有名。本質と意識、存在と無ってあたりへのアプローチ・・・って感じかな。本質が示す「最も大事な根本の性質、要素」よりも「ここに今ある」ということを重んじたこの思想、かつて「実存主義はもう古い」と言われたけど、今こそサルトルに注目すべきでは?と思ったり。実存主義を否定したポストモダンな構造主体の思想が受け入れられていた頃は、バブルと言う実態の無い経済が日本だけでなく世界を席巻してた。湾岸戦争なんかはその最たるモノで現実との乖離を強く感じた訳で。良い悪いじゃなくってなんだかソレが当然と思ってたりなんかもしてたんだな。でもそのバブルははじけて後遺症が未だに尾をひきずってる。そんな中でおこった米の同時多発テロは明らかに湾岸戦争とは違う何かを誰しもが感じたんじゃないでしょーか。机上の空論だった哲学は「いま、ここにある自分」を考え実践する哲学に再び取って代わられるんじゃないだろーか?と。
思想界や哲学界に雷撃を与えた「神は死んだ」と言う言葉。同時多発テロは世界のイデオロギーはアメリカンスタンダード1つじゃないってことを認識させるに十分な出来事だった訳で。
ただね、日本じゃかつてのような「サルトルなんて常識」みたいなレベルにはもうならないんだろーな、とは思うんですよね。わたしが悲観的なだけなのカモしれないけどサ。
  ▼米、新素粒子・ニュートリノの存在を確認(1956)
  ニュートリノってのは1933年にパウリによって理論的に存在を予言された電気的に中性(電荷ゼロ)で、重さ(質量)がほとんどゼロの粒子のこと。この「ほとんど」がかなりポイントで、微量であろうとも質量があるってことが確認された(1998)のはとても大きかったり。例えば銀河系、ここにある全恒星、惑星の質量を加えても銀河系の回転エネルギーにはほど遠いんだけど、銀河系がニュートリノで満たされているとすれば十分エネルギーになり得る。実はコレ、現代物理学のあり方さえも変えてしまうようなお話だったりする。同じ様な例を「洗濯機に入れたボール」に取ってみると分かり易い(わたしがそうだったので)。洗濯機の中に水をいれて渦を作る。その中に小さなボールを投げ込むと、水流と同じく銀河のような渦を描くのです。この時、発泡スチロールは自身で運動しているのではなくって、水流が運動していてそれに動かされているにすぎない。そして一番大事なのが微視的に見れば、水に対して球はなんら動いてないことなんですね。まさしく現代物理学最大の欠点は、こう言う水流エネルギー(ニュートリノに代表される空間を占める物質=ダークマター)を無視して記述されている点にある。視覚化されている発泡スチロールの球の運動だけを追っかけてるんですね。
村下的にはこの現代物理学の放棄こそが大統一論の呼び水になるんじゃないか?なんて思ったりしてるんですが。

6月22日
  ▼劉秀(光武帝)が漢朝(後漢)を再興(25)
  前漢を簒奪した「新」の王莽は周の政治復活を掲げ、復古主義的な改革を行ったんだけど実はその内容って言うのがまさに「強きを助け弱きをくじく」だったんですね。土地を国家のモノにしたり奴隷売買を禁止したり、有力者にとっては全然嬉しくない王朝だったワケ。当時の中国ってのが各地に豪族が割拠してて、中央集権ってのがかなり薄まっていた時期なだけにちょっと王莽の政治は理想的すぎたんですね。ま、儒教を根本に持ってきてるあたりで破綻は目に見えてるんだけども。
ま、そんな中で出てきたのが劉秀(光武帝)。前漢初代皇帝劉邦(高祖)の9世孫と言われてるけど、6代皇帝景帝の6世孫って言う方がどっちかと言うと正しかったり。なんだかんだで中国全土を統一して漢を復活(後漢または東漢)、させるんだけど実は彼の政治も王莽と似たようなモノだったりする。ただ王莽は豪族に厳しかったのに対し、光武帝の方はかなり豪族へ譲歩したものだったってあたりが唯一にして最大の違いカモ。ちなみに、劉秀を助けた名将達を光武二十八将と呼ぶんだけど、徳川の二十八将はコレをパクったモノだったりします。

6月23日

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