■ 王権の安定化 |
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継体天皇や欽明天皇のところでしきりに「王権の不安定さ」のお話をしたと思うんだけど。 |
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そのあたりがいまいちよくわかんないんですよ。 |
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あれだけ説明してあげたのにこの有様か? |
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後に後に説明を延ばしてたのは誰だって話なんだけどな・・・ |
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ん? |
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あ、なんでもありません。たしか大后とかそんなお話がありましたっけねー。 |
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この頃の権力構造って言うのは大王と各豪族首長との個人的な隷属契約的な側面が大きいのよ。さらに皇極まで「生前譲位」って言う例もないのよね。だから大王の死っていうのはそのまま権力構造の崩壊に繋がりかねないって言うとても不安定なモノだったワケ。 |
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この頃は皇太子って言う制度もありませんでしたからね。 |
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そこで次期王権を継承すべき人間を確保しておく必要性が出てきた。 |
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聖徳太子は皇太子だったとか言うお話もありますが。 |
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うーん、村下的にはそのお話はあまり信用できるものでは無いって思うな。これはこの後の講義でもするつもりなんだけど聖徳太子ってちょっとアヤシイのよ。 |
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なんか危険な香りが・・・。わたしの思い過ごしならいいのですけど・・・。 |
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それよりもその次期後継者を選ぶ制度を皇太子の前身であるって見方もちょっと・・・なんだな。 |
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あのぉ、「その制度」って? |
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あ、そうだったね。えっとね、世代内継承を安定させるために「大兄」と「大后」って立場が考え出されたって思ってんのね、わたし。 |
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なんとなくわかります。皇后とか皇太子とかそんな感じですよね。 |
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だーかーらー、違うんだって。大兄と大后は皇太子や皇后の前身じゃないんだってば。 |
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どういうことです? |
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最初に言ったように大王の権力っていうのはあくまでも大王と各豪族首長たちとの個人的な主従契約関係であって、いくら皇太子的な予定者を立てたってその人の実力如何ではその契約も反古にされちゃう可能性が大きいのよね。そういう意味からあらかじめ一人の人間に決めてしまうのでなくって何人かを候補に立てておいて大王の権力の一部ずつを補佐する役目を負わせていた、それが「大兄」じゃないかって思うのよ。ある意味継体以前の構造と似てるって言うか。 |
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継体以前は首長(大王)を出す家が複数あったってやつですか。 |
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それが全く別の集団でなく大王家内部の集団へ移行したって感じね。そういう意味では複数の「大兄」を一元化したものが後の皇太子と言えなくもない。 |
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じゃあ「大后」は? |
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単純に大王の正妻なら後の皇后と同じよね。でもここでも「大兄」と同じように後の制度と同一視するのはどうかな?って感じなのね。正妻としてではなくもっと期待された何かがあったのではないか?と。 |
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何を期待されたんでしょう。 |
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前のお話でもやったけどこの時期の特殊な王位継承法を補うって役目じゃないかな。これは「大后」となった人は大王の身内の王族であったことからも伺えるんだけど言ってみれば「大兄」と中身的には同じなのでは?と。 |
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大王の権力の一部を補佐するって言う・・・ |
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補佐とか殆ど分掌してたんじゃないかな。 |
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即位すらありうるってワケですか。 |
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大王には執政能力はもちろんのこと軍事や外交の能力も求められていたと考えられるからそれまで大王位に女性がいなかったと考えられるんだけど、世代内継承を重ねるに従って執政能力さえあれば性別は問わないっていう風潮が広まったのはしごく当然って言えるわね。そういう意味では推古天皇擁立って言うのは一つの画期的な出来事だと言えるわね。 |
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いわゆる中継ぎ的な役目っていうのはありませんか? |
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大体が女帝ってそういう役目を負って出てくるよね。推古もそういう側面は大きいと思うよ。この時期の有力な王位継承者って言うのは 押坂彦人大兄、竹田、厩戸の3人の欽明孫の皇子たちだったんだけどどの皇子が王位に就いても紛争はさけられないおそれがあった。そこで出てきたのが前大后の推古だったと。 |
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決定を先送りしたわけですね。日本らしいな。 |
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でもここで失敗が出てくる。 |
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なんですか? |
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推古の在位中、厩戸の死を以て3人がみんな死んでしまうのよ。推古の存在は確かに紛争の緩和にはなったけど結局3皇子たちから永遠に即位の機会を奪ってしまった。 |
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女って長生きだもんなー |
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そこで次なる女帝にはそういう面での変化も見られるんだな。 |
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次の女帝って言えば皇極ですか。「生前譲位」と「重祚」という史上初を2つやった天皇として有名ですよね。 |
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推古天皇のときの教訓から皇極天皇は即位の瞬間、いやそれ以前から「いつ」「誰に」「どのように」譲位するかって言う課題を背負ってたと言えるでしょうね。これはまた後の講義でお話するわ。 |
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そんな引きばっかり・・・ |
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歴史は通史として見なければ意味が無いの。断片的に物事をとらえても本筋は見えてこないのよっ
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