中世以降、現代に至るまで絶対的な武士の象徴として崇め奉られた源義家。彼の真実の姿とは?
後三年の役を通して見えてくる彼の実態に迫る。彼はなにゆえ武門の象徴となるに至ったのか?


■ 八幡太郎はおそろしや

ってゆーか八幡太郎って誰?

ここのWebでもよく登場するんだけど、これは源義家のことなのよ。

当時の武士は元服した神社などの名称と何番目の子供かってあたりで本名とは別の愛称みたいなのがあるんですよね。

そうそう、源義家は八幡太郎だし、彼の弟の義綱は加茂二郎だし、義光は新羅三郎って言われるんだ。
有名どころでは鎮西八郎(源為朝)って人もいるね。

これらの人たちはみんな武勇の誉れ高い武士ですが、その中でも源義家と言えば坂上田村麻呂や藤原秀郷なんかと並んで武士の一種のアイデンティティって言うか心の拠り所って感じがありますよね。

ビジネスマン向けの雑誌なんかでも「戦国武将に学ぶ会社経営」とか男の生き様みたいなモノを武士に求めたりしてるアレですね。

まぁアレって明治以降の国家主義的教育の中で観念的に埋め込まれた武士像ってのが大きく影響してる表れと思えるんだよ。
その代表選手が源義家なんだろうな、ってーのが今回の講義の主眼なの。

文部省唱歌として採用された「八幡太郎」の影響は見逃せません。

唱歌?そんな歌習ってませんよ。

これは戦前・戦中までの尋常小学校なんかで教えられてたモノだからわたしたちの世代にはちょっと馴染みが無いんだよね。
ハイ、晴田くん。

「わたしたち」ってセンセとわたしたち2人はまたちょっと世代が違うような気がするんですが、まぁそれはそれとして・・・。
この唱歌って言うのは武士でありながら風流でもあるっていう感じに義家を思い切り美化したモノなんですよ。

「千載和歌集」にも源義家作の歌がたしかあったような・・・

その和歌もそうですし、あと前九年の役の時、安倍貞任を追い詰めた時に「衣のたてはほころびにけり」と歌で呼びかけたのに対して貞任がすぐに「年をへし糸の乱れの苦しさに」って続けたことの優雅さに免じて逃がしてやったって言う逸話なんかもベースになった唱歌なんですよ。

ま、このあたりの真偽のほどはアヤシサ爆発なんだけどね。豪放磊落な(イメージの)武士だけどこういう風雅もあるんですよ、ってあたりが義家がウケてるところなんだろうね。

しかし院への昇殿を許されたことで武士の地位向上へは一役買ってますし、前九年・後三年の役で東国武士団を組織化したって事実は後々にかなりの影響を与えていますよね。

たしかにね。義家は生まれながらにして東国武士の棟梁になる星の下にいたって見えるの。

どういうことですか?

義家の祖父の源頼信は平忠常の乱を平定したことで関東に磐石の基盤を持ってたんですけど、母方の血統にも平将門の乱を平定した平貞盛の血が入ってるんですよ。血統的に関東での伝統的な軍事的地位と実質的な軍事的実力を相続してるんです。

へぇ〜、源氏と平氏が混じってるんですね。

この平氏は「良文流平氏」って言うんだけど、これは平氏側の政略結婚的な意味合いも結構あるんだよね。ちょっと没落しかけたんで源氏側へ擦り寄ったって感じで。
実はこの結婚で義家の父親の頼義は鎌倉を手に入れてるワケよ。ここで頼朝への布石があるワケね。

ほえ〜。しかし義家もさぞかし武士としての英才教育をされたんでしょうね〜。

義家が歴史の表舞台に出るのは前九年の役からなんだけど、ここで彼は父親の頼義、弟義綱とともに出陣してその英才教育の成果を思う存分発揮して目覚しい活躍を見せてるんだよ。

時に義家数え年で19歳。 『陸奥話記』によれば「将軍の長男義家は驍勇絶倫にして騎射神のごとし。(中略)神武命世なり。夷人靡き走り、敢えて当る者なし。」ってあります。この論功行賞として義家には翌年従五位下・出羽守の地位が与えられています。

すごいじゃないですか。ハタチで国守だなんて。

しかしこの出羽守ってのは実質的な意味をほとんど持たないの。
当時の出羽には清原武則って言う前九年の役の勝敗を決した人物が勢力を持ってたのよね。

この清原武則には従五位上・鎮守府将軍の地位が与えられています。

それじゃ意味ないじゃないですか。

だから義家は後三年の役をおこしたワケよ。武士にとっては砂金とか馬の産出地である奥州は喉から手が出るほどに欲しい地域だったしね。なんかもう事あるごとに介入していくって感じで。

確かに1070(延久2)年に陸奥国司源頼俊が藤原基通と合戦して国印と国倉の鍵が奪われると言う事件が発生してるんですが、義家はこの紛争へも積極的に介入しています。

当時の義家は下野守として下野へ赴任してたんだけど、そんなことはそっちのけで義家の意識が奥州へいってるって言う良い例だろうね。

そんなに興味あるんなら朝廷も早いウチに陸奥守にしてあげたらよかったのに。

ええ、1083(永保3)年、遂に義家は陸奥守に任命されます。奥州では清原氏の内紛も発生してまして、義家は念願であった奥州再進出を果たすワケです。そして後三年の役が勃発するんです。

この後三年の役での義家ってのがすごいのよ。

何がすごいんです?脱いだの?

また古いねぇ

センセにわかりやすいうようにボケたのに・・・。

こういうネタばかり繰り返してるとマジで「村下っていくつなんだ?」ってことになっちゃうでしょーに!

実は驚くほど年をとってるんですよ。

オイ!

シャレになってないので先に進みましょう。

コラ!

後三年の役での義家については『奥州後三年記』に詳しい記述がありますね。

すごいよ。ちょっと紹介するけどそこに若き日の騎射に優れた職能武人としての彼とは違った面が出てるからさ。ハイ、晴田くん。って言うかさっきの話はそのまま流していいんだろうか・・・

いいんですよ。みんな年は取るんですから。
さて、金沢柵の攻略に義家は兵糧攻めを使うんですが、そのうちその攻めに耐えられなくなって降参して出てくる人たちを義家は斬殺しちゃうんです。

え〜!降参してるんでしょ?何で殺したりするの〜?

そうすればもう誰も出てこられなくなるじゃないですか。そうすることで柵内の兵糧を早く尽きさせようって言う狙いなんですよ。

ひっどい!

まぁそれが戦争の実態なのカモしれないんだけどね。このお話にはまだ続きがあって・・・

柵の陥落後、義家軍は「みだれ入て」清原軍の兵を虐殺するんですよ。
「逃ぐる者は千万が一人なり」っていうくらい恐ろしい状況だったみたいですね。もう容赦しないって感覚ですね。

清原軍の敗北が決定した後もかなりひどいことやってんのよ。
かつて義家のお父さんの源頼義は前九年の役を優位に持って行くために清原氏の参戦を依頼したワケだけど、その時に清原氏と臣従の礼を取ってんだよね。そのことを義家軍に言いふらしたってことで清原武衡(武則の後継者)の部下の千任って人の歯を金箸で突き破って舌を引き出して切らせた上にその身を木につるして足元には武衡の首を置く・・・ってなことまでやってる。

事実を言っただけなのにね〜

この時期の東国にはまだまだ野蛮な戦争風習って言うか、こういう例はいくつもあるんですよね。

『奥州後三年記』の記述が丸々信用できるものではないだろうけど、義家も例外ではないってことなんだよ。
後世には文武両道の名将として武士のみならず民衆からもにてはたされた義家だけど、同時代の貴族や民衆からはあまり良くは思われてなかったようだしね。

『中右記』には「多く罪無き人を殺す」とか『梁塵秘抄』では「鷲のすむ深山には概て鳥はすむものか、同じ源氏とは申せども八幡太郎はおそろしや」とかって記述がありますよね。
義家の院昇殿に対してもかなり警戒感があったようです。

しかしなんでそんな義家が英雄にまでなったんだろ?

それはもう義家の子孫が将軍として延々と日本支配を続けたからなんじゃないかな。
将軍を筆頭として地方の武士たちも先祖と義家とのつながりに自らのアイデンティティを求めてたんだもん。

「やぁやぁ我こそは・・・」とかって言うのもそれと繋がりがあるんでしょうね。

自分の氏素性と部門としての自負、武家政権っていうのはそういうバックボーンを基本としてるって言うのは気にとめておいていいと思うな。明治維新後の薩長藩閥にしたって所詮は武士の出だからね。
そういう政権によって代々育てられたある意味では日本人としてのアイデンティティも武士に求められるんじゃない?

「俺を誰だと思ってるんだ」みたいなセリフが今の世の中でもまかり通ってるって現実はその証明にもなると思うよ。

そういう流れがあるからこそ「多くの罪無き人を殺した」義家は日本国民の英雄になったんですね。うーむ・・・

         
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