■ 源平藤橘〜臣籍降下と清和源氏 |
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"げんぺいとうきつ"、文字通り「源氏・平氏・藤原氏・橘氏」の四姓を指します。
いわゆる名門ってやつでしょうか。 |
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古代は別としても歴史上の有名人はみんなこの四つに連なってるよね。
でも橘氏は奈良麻呂以降パッとしないから殆ど「源平藤」みたいなもんかな。 |
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古来いろいろな「氏」があったんですが、藤原氏の権力掌握の過程で源氏平氏以外のほとんどの名家は没落しています。 |
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源氏や平氏は新興勢力で天皇とも近いからむやみに排除できなかったのもあるかもしれないね。 |
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「元は天皇家」ってのがポイントなんでしょうね。 |
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よくわかってんじゃないのさ。 |
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うふふ〜。伊達にチチでかくないぞ。 |
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(ーー;)喧嘩売ってるのか? |
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藤原氏はいうまでもなく乙巳の変後に中臣鎌足が藤原朝臣の姓を賜ったところに端を発します。 |
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有名だもんね。
まぁこの辺のお話については不比等のところでやる予定もあるし「以下略」ってことで。 |
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ひどい講義もあったんもんだ。。。 |
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清和天皇の皇族で臣籍降下時、源姓を賜ったのが清和源氏です。
源氏はこの他にもいろいろな流れがあって全部で20の流れがありますがそれに対して平氏は桓武平氏他わずか4人の天皇を祖とする4系統しかありません。
一説には一世王と二世王が源氏、三世王以降が平氏という決まりがあったとも言われています。 |
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「一世」とか「二世」って言うのは・・・ |
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これも別枠でお話しようと思ってるけど簡単に説明しておきましょうか。
ハイ、晴田くん。 |
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皇族には天皇から親王(男性)・内親王(女性)の許可が降りるワケですが、その子どもが親王(内親王)になることはあまりありません。そこからは王を名乗るんです。
「一世」とか「二世」とか言うのはその元の親王からの親等を現してると思えばわかりやすいかと思います。 |
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ナルホド。
で、なんで「源」とか「平」なんです? |
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諸説あるけど「源」って言うのは中国の書物からきてるみたいよ。天皇と源が一緒って意味みたい。
「平」は桓武天皇とくれば平安京から来てるってーのはご想像の通り。 |
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イヤ、何も想像してないんですが。 |
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ちょっとは考えなさいよ!
あと頼朝なんかは一般的に「清和源氏」と呼ばれてる(名乗ってる)んだけどちょっとこのあたりはアヤシイんだよ。 |
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どっちが「アヤシイ」んだか。。。 |
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さっきからうるさいぞ。
あのね、実は頼朝とかあのあたりは清和源氏じゃなくって陽成源氏って言うのは今は通説なんだよ。
清和源氏初代の経基王のおとーさんと「されている」貞純親王の年齢に不都合がありすぎちゃってるところから想像されるんだけどさ、元々陽成天皇って「悪君の極み」とか「乱国の主」とか呼ばれててね、評判良くなかったのね。そこで陽成天皇のお父さんで性格も穏和で何も問題をおこしてない清和天皇までさかのぼって清和天皇系ってことにしちゃったって言うのがホントのところだったりするのよ。 |
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「されてる」って言うのは・・・ |
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うん、まず一番信頼のおける系図って言われてる『尊卑分脈』を見るとね、貞純親王って916(延喜16)年に64歳で死んでるんだよ。すると生まれたのって852(仁寿2)年ってことになるよね。 |
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しかしこの年、貞純親王の父である清和天皇は2歳です。 |
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なにぃ! |
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さらに貞純親王って清和天皇の6番目の皇子なのよ。 |
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はぁ?2歳でもう6人の子持ち? |
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ありえないよね。
次に『系図簒要』を見ると死んだ年は同じなんだけど44歳で死んだってなってるの。 |
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これでいけば873(貞観15)年生まれってことになりますので、その頃ですと清和天皇も24歳で6人の子持ちでもおかしくないってことになります。 |
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続いて『日本三代実録』
これによると873年は清和天皇が8人の皇親を親王、内親王にしてるんだけどこの中に貞純親王も入ってるのね。 |
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生まれて間もなく親王宣下でしょ。それが何か?
愛子さまや秋篠宮のみなさんだってそうだったじゃないですか。 |
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今と昔を一緒にするんじゃないの!こういう例はこの時期としては異例のことなの。
その他貞純親王についてはあちこちで矛盾した資料があって何かしら作為を感じてしまうんだよね。
貞純親王が清和天皇の6番目の皇子であることからその子である経基王は「六孫王」って名乗っていたってことなんだけど、これにしたって他に五孫王とか四孫王なんて名乗ってた人もいないわけでそんな遠くの血縁関係をわざわざ名乗るか?って疑問もあるのね。
ちょっと面白い資料があってさ、ハイ晴田くん。 |
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経基王の孫にあたる源頼信が1046(永承元)年に石清水八幡宮に納めた願文に「先人は新発(満仲)、その先きは経基、その先きは元平親王、その先きは陽成天皇、その先きは清和天皇・・・」と書いてあるんですよ。 |
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ん?経基王は貞純親王の子なんじゃないの? |
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陽成天皇につなげたくなかったって気配が濃厚なのよ。
誰の創作かはわかんないけど、いわゆる清和源氏を陽成天皇へ繋がらないよう強引に経基王の親を貞純親王にしたって見えちゃうんだよね。そうすれば清和天皇へ直結するからさ。
でもこの願文を信じるとどっちにしても清和天皇へは行き着くんだけどその前に陽成天皇へ行き着いちゃう。 |
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「〜源氏」って言うのは系図をさかのぼって一番最初に行き当たる天皇の名前を使わなきゃなんないですからねぇ。 |
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まぁ昔は合戦の前に名乗ったりするじゃない「やぁやぁ我こそは…」って。そこで「悪君の極み、乱国の主、陽成天皇の子孫なり〜」なんてクチが裂けても言えないからね。 |
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名前の印象も「清和」っていい感じだもんなー。 |
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さて、臣籍降下の源氏として最初に現れるのは嵯峨源氏でしょうか?
摂関家全盛で皇室の財政が厳しくなったことで嵯峨天皇が子供達を次々と皇族から臣下にしたと言う。。。 |
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財政に困るのはいつでもそうですよね?例えばこの後の鎌倉や室町以降なんて朝廷の所領なんて微々たるものなんでしょ?だとするとその後もどんどん臣籍降下してるってことになりますよね。 |
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と、そう考えるのが普通だよね。でもこの後の時代にはまだ奥の手があるんだよ。 |
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奥の手? |
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貴族にするんじゃなくって大寺院に送り込むのね。出家させちゃうの。
このテクは後の将軍家なんかも使うんだけどね。
これって当時は無視できない存在だった寺社勢力を取り込むって言う目的もあるんだよ。 |
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さて、嵯峨天皇は17人の皇子と15人の皇女を嵯峨源氏として臣籍降下させています。 |
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って言うことは臣籍降下してない人も居るんでしょうから・・・お盛んなんですねぇ(笑)
で、何が変わるんですか? |
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名前が変わるじゃない。 |
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あのですね・・・ |
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うふ。これは冗談でも何でもなくそうなのよ。
そもそも姓って身分ピラミッドの一番上である天皇から与えられるモノだからね。皇族には姓が無いの。あったらおかしいでしょ?誰からもらったんだ?ってことになっちゃうもんね。皇族より格上があるのか?って。 |
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すると私たちの姓も? |
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私たちの姓は普通の家なら明治期に勝手に自分たちで付けたのが大部分でしょうね。
だから自分は「藤原」だからとか言っても鎌足や道長の血を引いてるってわけじゃないんだな。むしろ「藤原」って名字であるより正統の藤原氏なら近衛だとか九条、鷹司、二条、一条あたりの名字になってるはずなんだ。そういう家は旧華族家だから「実はわたしは・・・」なんてことはまぁまず無いよ。そりゃどこかでは繋がってるでしょうけどね。 |
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繋がってるんでしょ? |
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あのね、例えばあなたのすぐ上にはお父さんとお母さんがいるでしょ。その二人にもそれぞれお父さんとお母さんがいるんだよ。 |
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何を今更分かり切ったこと言ってるんです? |
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・・・説明してあげてんのよっ!
だからあなたの2世代前で既に4つの家系が混じってるってのわかるよね。さらに1世代繰り上がると8つの家系になる。倍々ゲームなのよ。 |
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いや、別に「ゲーム」じゃないと思うんですけど・・・ |
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どんどんさかのぼっていけばそりゃどこかしらの家には繋がるさ。逆に繋がらない方がおかしいとも言えるよ。
でも家系ってそういうもんじゃないからねぇ。でないと世間は藤原氏と源氏だらけになっちゃう。
って言うか「あなたもわたしも天皇家」とか言い出しかねない。 |
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うちは家紋が上がり藤です。 |
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うん、藤の家紋だから「うちは藤原氏カモ・・・」って言いたいのはわかるんだけど(実は村下の実家は下がり藤)、上がり藤や下がり藤は一番一般的な紋なのよ。残念ね。
藤でもちょっと変わったやつ「二条藤」だとか、あと「近衛牡丹」だとかなら藤原氏の可能性あるけど名前見てもわかる通り、これって二条家や近衛家の家紋だから問答無用で藤原氏なんだけどね。 |
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五三の桐も使いますが。。。 |
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うむ。確かに五三の桐は菊と共に元々天皇家の家紋だったんだけど、関西系では五三の桐は誰が使ってもいい家紋になってるのよ。だから貸衣装の紋付きってみ〜んな五三の桐だよ。一度借りてきてみ。 |
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ちなみに菊の紋は現在天皇家(皇族も)のみに許される家紋ですね。 |
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あの南北朝期に活躍した楠木正成なんかは、後醍醐天皇から菊の家紋を下賜されたんで「菊水」って言う菊をあしらった家紋を使ってたけどあーゆーのはもうダメなんだろーねぇ。。。
機会があれば家紋なんかについても講義しようと思ってるよ。 |
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う〜む。。。 |
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まぁ自分の出自を良い家に求めたい気持ちはわかるけどさ、そういう家は明治時代にちゃーんと華族として区別されてるからね、そういう家なら今だってそれ相応なお家でしょ?わたしの学生時代にもいたよ、「深窓の令嬢」って人。たぶんここのHPも見てくれてると思うんだけども。 |
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掲示板にでも出てきて下さーい。 |
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話を戻しますが源氏の中でも頼義−義家−頼朝のラインが一番有名かと思われます。 |
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そもそも臣籍降下のもう一つの狙いは藤原氏で独占していた上級貴族への食い込みにもあるのよ。 |
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最近ハイレグなんて死語もいいところですけどね〜。
でもやっぱり藤原氏ですか。 |
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下火っつーか特に区別するほどでもなくなったっつーかだ。アレはいろいろと面倒なのよね〜・・・って何の話してんのよ。
でもそれだけ勢いあったってことだよね。ハイレグが、じゃなくって藤原氏が、だぞ。 |
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源氏として臣下に下った皇族を高い役職に就けて藤原氏を側面から牽制する。藤原氏からすれば相手は元皇族だからあからさまに排斥することはできないと、こういうわけです。わたしもハイレグ好きです。 |
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それも大体一代限りで後は落ちぶれていくばかりだったんだけどね。
その中でいち早く院の北面の武士として活路を見いだしたのがこの頼義のおとーさん、頼信なのさ。 |
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へぇ、先見の明があるんですね。 |
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って言うか、さらに遡って清和源氏の初代に経基王って人がいたのよ。この人が武蔵介に任命されて現地に行った時にちょっとしたもめ事があってね。 |
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当時の国司は任命されても現地に赴任しなくていいような制度がありました。これを遙任と呼びます。 |
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まぁ経基王は国司に当たる「武蔵守」でなくってその下の「武蔵介」なんだけど武蔵守がまだ現地に赴任する前に乗り込んでかなり強引な徴税をやってたみたいなのね。
この時に足利郡司の武蔵武芝って人と一悶着あったの。 |
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その人を倒して一躍武門の勇になった、と。 |
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じゃなくって何もできなかったの(笑)
この時に両者の仲介に入ったのがあの平将門なのね。 |
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既にこの時将門は伯父の平国香を討って東国に確固たる地盤を築いていました。
ですのでこの調停はすぐにまとまりまして、両者揃って仲直りの宴会が開かれるコトになったんです。 |
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でも経基王は近くまで来たのに現場まで来なかった。 |
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え〜なんで〜? |
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根本的にヘタレなのよ。あまり遅いんでしびれをきらした将門と武蔵武芝は先に宴会を始めちゃった。
ま、よくあることよね。 |
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いくら待っても来ない経基王を呼びに将門の部下が幕舎まで迎えに行くんです。
しかし経基王は二人が共謀して自分を討ちに来たと勘違いしてしまいます。兵士に弓を引いて殺すとそのまま京都へ帰って朝廷に「将門に謀反の意志アリ」と報告します。 |
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うわ!ヘタレだ〜 |
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でもそうこうするうちに将門が本当に乱を起こしちゃった。
京都の人は「経基王は将門があらかじめ乱を起こすことを予言していた。すごいなぁ」って感心しちゃってね。将門追討軍の副大将にも任命されちゃう。 |
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実際に戦場に行くんですか?ヘタレのクセに。 |
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しかーし!彼が現地に着く頃はもう既に藤原秀郷と平貞盛がもう将門を討ち取った後で何もしなくてよかったのよ。 |
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その直後のいわゆる純友の乱についても追討の命令が下りたんですが、これも何もしないまま純友は捕らえられてしまいます。 |
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そんなこんなあっていつの間にか経基王の家系は「武門の勇」ってことになってたのよ。 |
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でも頼信・頼義・義家この3人はすごいんですよね? |
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そうね。関東の武士の間では圧倒的な支持を得ていたようね。
東北の清原氏の内紛に介入した後三年の役は朝廷からは私闘としか見てもらえなかったから公的な恩賞は何も出なかったの。この時私財をなげうって部下達に恩賞を与えた義家の役割は特に大きかったみたいだね。「八幡太郎義家」って言えば泣く子も黙るみたいな。 |
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こうして義家系源氏は関東で絶大な地盤を築いていくのです。 |
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鎌倉幕府に繋がることだからよく覚えておいてね。 |
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ほほぅ。そんな伏線が。 |
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わたしだって流れを考えることもあるのだ。 |
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でも先に鎌倉の講義をやってるんで意味ないような・・・ |