その名前とは裏腹に常に皇統が危機に晒されていたのが平安時代であった。
生前譲位も摂政・関白も全てはその皇統の危機を乗りきるためのシステムだったのである。
従来の藤原氏中心の歴史観から主体を天皇に変えることで見えてくるものとは?


■ 王統の安定装置〜生前譲位と摂政・関白

幼い天皇に代わり政務を覧るのが摂政、成人した天皇を補佐するのが関白・・・ですよね?

藤原氏は天皇へ自分の娘を后として入れ、天皇との間に生まれた皇子を天皇とすることで自身が天皇の外戚となり政治の実権を握ったと言われています。

それで全然間違いじゃないんだけどね。

久々の講義と思えば今日もこれですか。

同じモノを見ていてもその意味を知らないと歪んで見えちゃう危険性があるって言いたいのよ。

歪んでる人に歪んでるって言われたらそれは真っ直ぐって気がしないでもないけどなー。

じゃあ講義も久々だしその歪んだ思想ってのをみっちり叩き込んであげることとしよう。
久々だから長いわよー(笑)

ひぃ!

まずは清和天皇の誕生から、晴田くん。

858年文徳天皇が32歳の若さで崩御したことによって、当時まだ9歳の惟仁(これひと)親王が日本史上初めて未成年で天皇へ即位します。これが清和天皇です。

これって既に成人している惟喬(これたか)親王をさしおいての立太子&即位だった訳なんだけど−

惟仁親王のお母さんが藤原良房の娘だったからというのが大きく影響していると言われています。

実力者の系譜?

んー、ここへ至るまでにその前段階ってのがあってね。
文徳天皇のひいおじいちゃんに当たる桓武天皇、この人の皇子たちの間で皇位継承の争いが起こってるのね。

候補者の中で神野親王を支持したのが藤原良房です。
神野親王は平城天皇の後に即位して嵯峨天皇となる人です。

その息子である正良(まさなが)親王も良房の息が大いにかかってて、既定路線かのように即位する。

それが仁明天皇です。この流れはその皇子道康(みちやす)親王へも継いでいきます。
この道康親王がさきほどお話しした文徳天皇です。

ここでもう既にその後の藤原氏の朝廷掌握の手段と言われている、"天皇の外戚となること"をやってる訳なんだよね。

やっぱ間違ってないじゃん。

いや、村下的にはこの「良房の系統を母方に持つということ」の主体は良房側にあったんじゃなくって、あくまで天皇の方にあったと見たいんだな。

ん?どゆこと?

天皇が良房の系統をあえて選んだということですね。

代々の天皇が天命かのように目指す『直系相続』を補佐・補完する貴族は誰でも良かった訳じゃなくて、天皇家に貢献度が高くて他氏への押さえも効く人間じゃなきゃならない。良房が選ばれたのはそういう背景があったということから出発したいのね。
ということでその後の状況を見てみたいんだけど、晴田くん。

仁明−文徳−清和と無事直系に皇位が伝わっている状況は皇位継承で揺れに揺れた廟堂に一時の平安をもたらします。

しかし文徳は皇位に就くものの病弱だし清和はまだ幼い、不安の種はあったのよ。

そんな857年、藤原良房は太政大臣という律令の最高位につきます。

太政大臣っていうのは太政官の最高職という律令上のトップという側面はもちろんのこと、「天子の師」って言って天皇の先生的な役割も持ってたんだけど−

良房はその期待通り無事清和を元服にまでもっていきます。
そしてそれを見届けると太政大臣のまま政治の第一線から引きます。

太政大臣のまま引くってのはポイントでね、元服したとは言うものの清和はまだ20歳にもなってない訳で、他の皇族がミョーな動きをしないとも限らない。
バックはちゃんと付いてるぞっていう無言のアピールな訳よ。

しかし安泰に見えた皇位も清和には跡継ぎができる気配がありません。
再び貴族間で次期後継者を巡り策謀が渦巻きます。そんな中で起こったのが「応天門の変」です。

この難局にあたって太政大臣では上級貴族を抑える権威としては不足するとして、良房にそれまで皇族にしか就任実績のない摂政の地位が与えられるに至るのね。
この摂政、 村下としてはあくまで難局打開の意味での摂政就任であって、後世のいわゆる「幼少の天皇を補佐する」っていう側面は薄いと見たい。

それはすなわち事実上良房は皇族クラスの権威を帯びていたとも言えるんでは?

人物と役職が交互に影響し合ってそれぞれの権威を上げていくっていうパターンかな。
同じような例は今後も出てくるから「○○=××」っていう一元的な見方はしないように気をつけておいて欲しいな。
元々の太政大臣がそうであるように、この時の摂政設置もまた臨時的措置であったと考えたいね。

876年、清和は退位し8歳の陽成が即位すると同時に良房の息子である基経が摂政に任じられています。

あれ?摂政は臨時的措置なんでは?

仮に何かに就けるとしても太政大臣が筋のような気がしますね。

この時基経は右大臣。彼よりも年長であり臣籍降下したとはいうものの準皇族扱いだった左大臣源融(みなもとのとおる)を飛び越えて太政大臣にできるほど朝廷はリベラルじゃないんだなー。

じゃあそれは良いとして、なんで摂政なんです?

この時の摂政はあくまで幼少の天皇を「養育する」役目と見たいね。
清和院政開始にあたって摂政の職務はそこへ限定されるはずだったんだろうと。

しかし直後に清和は病床についてしまいます。この時陽成はまだ13歳。
清和は基経を摂政兼任のまま太政大臣へ任命します。

ここで摂政と太政大臣の職務がクロスしてくる訳よ。
天皇が目指していたところは院政であって、摂政は幼少の天皇の養育係に過ぎなかった。
でも譲位して上皇へなる(はずの)天皇の健康面にのっぴきならない事態が生じることで、その摂政が太政大臣を兼務することによって摂政が太政大臣の性格をも帯びていったということなのね。

良房と基経とで太政大臣と摂政に就く順番が逆なのも注目したいですね。

その通り。この違いに気付くか気付かないかが別れ道なのよ〜
良房にまず期待されたのは直系相続の危機を救うことであって太政大臣就任が本線なの。
摂政就任は本来太政官の長としての太政大臣の職掌を政治面で補完する意味合いだったって見たいのね。

その関係もあって光孝天皇の時代、菅原道真らによって太政大臣と摂政の職掌が明確に分類されることになります。

じゃあ摂政の基経に期待されたのは直系相続のなんたるか、帝王学を幼少の天皇へたたき込む役割だったということ?

その役目に最も適していたのが良房の家系だったということでしょうね。

こう見ていくとわかりやすいでしょ?良房の時とは違って基経の時は幼少天皇の教育を託すものとして摂政に、行政機関たる太政官の最高職太政大臣へ就かせることで政務を託してるワケね。
忘れないでいて欲しいのは基経の摂政就任、この段階で摂政は天皇の権限を代行している訳じゃなくって、あくまで主体は天皇側にあるってことなのね。摂政はあくまで教育係の域を出ていない。

じゃあ関白は?

まず関白の成立にはその時期で諸説あるんだけど−

大きく分けて3つの説があります。
1つは880年、陽成天皇の成人と同時に関白となったと『公卿補任』に記されているもの
2つめは884年、光孝天皇から基経に対して国政委任の詔が出されたこと、これが後の関白任命の際の詔書の原点になっていることからこれを以て関白就任とみるという説
3つめは887年、宇多天皇から基経へ出された国政委任の詔書に「関り白す(あずかりもうす)」の文言が入っていたことでこれを関白の最初という説

関白は令外官(りょうげのかん)と言って律令にはない職制なのね。
ちゃんと規定された役職じゃないからその中身も曖昧なのよ。

いずれにしても重要案件を直接天皇へ奏上し、天皇から出されるものを直接事前に相談されるという、律令外にあって律令よりも格上に位置されるという役職が誕生します。

『公卿補任』の記述は後生の修飾ばりばりだから、ここから関白の成り立ちとそもそもの意味合いをを探るには適さないと村下は見てる。
でも884年の光孝天皇からの詔書と887年の宇多天皇からの詔書ってすごく重要なのね。
では光孝天皇即位までの流れをハイ、晴田くん。

883年、陽成天皇が清涼殿で乳母子である源益(みなもとのすすむ)を殺害するという事件を起こし譲位を余儀なくされます。
次期天皇には陽成の曾祖父の代まで遡り別の皇統から時康親王が擁立されます。これが光孝天皇です。

なんでそんなに離れた血統を?せっかく直系で良い感じに行ってたのに。

縁起が悪いっていうか、この血統そのものが見限られたと見たいね。
だからこそ遠くの血統を皇位に就けることで一旦リセットかけたって感じ。

光孝天皇、この時実に55歳。明らかに中継ぎ風味ですよね。
天皇は自らも中継ぎであることを示すかのように、子ども達を次々と臣籍降下させ政治に関しても基経へ一任すべくさきほどの証書を出します。

でもその3年後、次期後継者が決まらないまま光孝は崩御しちゃう。

あら

そして光孝天皇の第7子である定省親王が即位します。これが宇多天皇です。

実はこの定省親王って一度臣籍降下して貴族になってんのね。立場上弱いワケ。

宇多天皇も光孝天皇と同じく基経を関白にして政治の主導者として委ねるに至ります。

この流れを見てもわかるように、「関白」っていう成人した天皇に代行して国政を総覧するという役職を作ったのは、直系皇統が揺らいで政治的に不安定な状況が生まれたからなのね。

不安定だから安定させるためのつっかえ棒みたいな?

そう!そしてそのつっかえ棒はその辺のワケワカラン人間じゃだめだったってことよね。
良房−基経という権威をもってしかその役割はできなかったと。こう見たい訳なのさ。

根本的なこと聞いていいです?

いいよ

結局どこへ向かおうとしてるんでしょう?

良いところに気がついたねぇ。
天皇が目指すのはあくまで「直系相続」だとわたしは考えてる。

自分の子どもに後を継がせたい?

そうね。そもそも「皇太子」というものはそういう目的だったんだけどね。更に一歩進めてもう天皇にちゃおう、みたいな。
ただその天皇に好き勝手されたんじゃ困るからまだ幼い時に天皇に就ける。補佐として親戚の有力貴族を摂政にしてその摂政から天皇をあやつる。天皇は成人した後も上皇の意志のまま動いてもらわなければならないから関白をつける。そして自分は律令の埒外から全てを握る。
この形態っていうのはすなわち・・・

院政じゃないですか!

院政が始まるのと時を同じくするように摂政・関白が常置の官になるカラクリはまさにここにあるの。
歴史の事実として院政は摂関政治の後で出てきたものだけど、何も院政は摂関政治を否定したり置き換えるものじゃなかった。
村下的に摂関政治は院政を行うにあたっての前段階、必要条件であったと捉えたいのね。

摂関政治を内包するモノが院政、みたいな?

逆に言えば天皇親政が成れば上皇の存在意義はなくなり摂関は必要なくなる。
後々のお話になるけど建武新政で摂関が置かれなかったのは『天皇親政=上皇不要=摂関不要』っていう当然の帰結からなの。

ただ、歴史の事実として院政への道のりはまだまだ遠いんです。

ですよねぇ。だってまだ摂関の全盛期にすら入ってないもん。

じゃあそのあたりの経緯を。

宇多天皇の次、醍醐天皇は息子の朱雀の後見人として藤原忠平を摂政として就け、自らは朱雀へ譲位することで院政を敷こうとします。

でもいきなり躓いちゃう。

もしかして

醍醐天皇は寛明親王へ譲位した直後46才の若さで崩御してしまうんです。

やっぱり

これは「課外授業」の方で講義してるけど、よく言う近親婚が望ましくないってのは耐性の方向が似通っちゃうってところにあるんだよね。
種の存続にはなるべく雑種が良いのよ(笑)
おそらくこの時期、皇統の遺伝子に悪影響をもたらす何かが出現してしまったと村下は見てる。

残された寛明親王は即位して朱雀天皇となるんですが、この時まだ8歳。当然後継ぎはいません。

ここでまた直系断絶の危機が発生する。
醍醐天皇は死んじゃってるから院政はない。
本来は院政下で限られた機能を有するだけのはずの摂関がやっぱり全面へ出ないとならない状態になるのね。

朱雀は成人しても後継ぎが生まれる気配がなく、朝廷内は再び混乱します。
この危機を乗りきるために摂政忠平は太政大臣に就任します。
944年、忠平は朱雀の同母弟成明親王を皇太子とし、2年後に村上天皇として即位させます。
そして950年、村上の第二子憲平親王を立太子させ皇統が安定するのを確かめた直後死去します。

仕事してますねぇ。

でも残念ながら話はここで収まらない。
村上としては自分は譲位して息子の憲平親王に即位させる、その補佐として憲平親王の祖父にあたる藤原師輔を摂政として付けるって考えだったんだよね。

しかし960年、藤原師輔が60歳で死去します。憲平親王の後見人に足る人材がなく村上天皇の譲位は延期されます。
続いて967年、村上天皇崩御。

波瀾万丈ですね。

憲平親王は即位して冷泉天皇となるんですが精神を病んでしまい、ここでまた跡継ぎが生まれないという事態が発生してしまうんです。
事ここに至って冷泉から中継ぎとして一旦弟の守平親王(即位して円融天皇)に譲位が行われ、冷泉の跡継ぎ誕生を待つことになりました。

なんかイヤな予感(笑)

冷泉と円融両方に男子が生まれてしまうんですね。

やっぱりか

中継ぎで弟に継がせると大体このパターンになるから覚えておくように。

この2人の兄弟(とそれを支持する貴族)間で皇位継承の争いが起きてしまいます。

うまくいかないですね。

それを解消するために両統の迭立が行われることになります。

テツリツ

これよりもうちょっと後の時代だけど「両統迭立」って習ってるでしょ。要は交代で皇位に就けましょってこと。
実はこの妥協案こそが諸悪の根源なんだけどね〜

迭立が行われることでかえって貴族間に派閥ができて一向に朝廷内の対立は収まらなかったようです。

代々の天皇が早死にするわ天皇候補はいっぱいいるわじゃ安定もしないよね。

んー、天皇が連続して危機的状態に陥っちゃったから上皇になる人そのものがいない、自動的に摂関に頼らざるを得なかったってことで良いのかな?

そういうこと。
今回押さえておいて欲しいのは摂関というのは自らの系統に皇位を継承させたい上皇の補完機関に過ぎないということなのね。
まずは院政ありきってことを忘れないで欲しい。

順番が逆になったのでわかりにくくなってる感はありますね。

結果的に院より先に摂関が「単独で」政治を執ることになったのは事実で『摂関政治』っていう表現自体は間違いじゃないんだけど、どういう経緯でそこへ至ったかを知っておかないとあたかも摂関が天皇に取って代わったかのように錯覚しちゃうんだな。

あくまで主は直系相続を目指す天皇であって上皇であると見れば見方が変わって来ますね。

主である天皇が幼くして死んでしまったから従である摂関が表に見えていただけってことか。

そういう面があることは否定しないけど、"傀儡としての天皇"だとか"藤原氏の策謀"みたいなイメージとは違うモノが見えて来るでしょ?
代々の天皇が目指していたのは自らの直系へ皇統を相続させたいという意志だけであって、それを実現するための手段としての院政、更にそれを補完するものとしての摂関があったと考えるべきなのね。

摂関政治って「天皇」という権威を利用して政治を我がモノにしようとした、ってイメージだったんだけどなぁ。

ですからそれは村下センセが仰ったように、ある一面からの見方としては間違いじゃないんだと思います。

視点の違いってあるよね。日本史ってやっぱ藤原氏中心だからさ、そうなっちゃうんだよね。
学校でも摂関政治が衰退して新たな統治形態として院政が発生した的な習い方をするじゃない?でも摂関政治って特殊な事情から生まれたものだから院政と同じようなものとして捉えるのは危険だなーって思いながら授業聞いていたのを思い出すよ。

ヤな生徒だったんですね

ん?

(さえぎるように)いやーしかし今回は天皇や藤原氏の名前が乱れ飛んでかなりややこしかったのではないでしょうか。

摂関と言えば出てくる道長・頼通をあえて出さないあたりが村下カラーなのだ。
理解するまでじっくり読んでちゃぶだい。

フレーズの端々に重ねて来た年輪が見え隠れしますねー

新しければ良いのなら歴史のおべんきょなんて誰もしないのだ。
「歴史」ってモノを持たないアメリカに毒されてていてはだめよ。歴史なんて作ろうったって作れないんだから。

作ってる国もありますけどね

そのうち九州も自分達の領土だって言い出すんじゃない?(笑)

そっち方面のお話はあまりにも危険すぎます。

言うべきことはちゃんと言わないと。
そのためには自分たちが寄って来るべき来歴ってものをわかっておかないといけないよね。周りの国はミョーな歴史ばっか教えてるんだからわたしらくらいはちゃんとしてないとさ。

その来歴を知る意味でも次回は院政ですか。

あ、無理矢理本題に戻した。

実は院政ってこの後もずっと引っ張るすごく重要なお話なんで必ず押さえておくようにネ!

押さえようとしてもう何年も待ち構えてるんだけど講義自体がなかなか出てこないのだ。

         
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