|
|
4月1日 |
|
|
|
4月2日 |
|
|
|
4月3日 |
|
|
|
4月4日 |
|
|
|
4月5日 |
|
|
|
4月6日 |
|
|
|
4月7日 |
|
|
|
4月8日 |
|
|
|
4月9日 |
|
|
|
4月10日 |
|
|
▼モルヴィッツの戦い(1741) |
|
フリードリヒ2世のプロイセンとマリア・テレジア率いるオーストリアの戦い。マリア・テレジアってのは「プラグマティッシェ・ザンクツィオン」で有名なカール6世の全家督を継承したハプスブルク家の当主。ただやっぱ女ってことでナメられたのか、彼女が後を継いだとたんに周辺国がハプスブルク家領内の国々と連携を始めちゃう。このあたりの騒動に乗じてフランスはオーストリア継承戦争を起こす訳だけど、もう1つの大国プロイセンも第一次シレジア戦争を起こしちゃう。この第一次シレジア戦争を決定付けたのがこのモルヴィッツの戦い。
代々神聖ローマ帝国皇帝を輩出し、欧州に広大な領土を持ったハプスブルク家だけどオーストリアの衰退と共に歴史の表舞台からも消えて行ったのはやっぱ近代化の波に乗り損ねたってあたりが大きいように思われ。
マリー・アントワネットはこのマリア・テレジアの娘。犬猿の仲だったブルボン家との電撃的な婚姻はマリア・テレジアの絶妙な政治感覚から来たモノなんでしょうね。 |
|
▼オーストリアのマクシミリアン大公がメキシコ皇帝に就任(1864) |
|
またまたハプスブルク家。ナポレオン三世に乗せられて自らメキシコへ渡り、皇帝を名乗った。仏は皇帝警護の大義名分のもと駐留軍を送り込む。結局マクシミリアン大公は暗殺されちゃうんだけどその時特にナポレオンが何かやってくれた訳でもなく。ま、良いように利用されちゃっただけ、みたいな。
実際のところ神聖ローマ帝国皇帝と言う遺物に長年居座り続けたことで国家組織・家組織そのものがもう動かしがたい形式になっちゃったってあたりが問題なんでしょうな。統一イタリアができ、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が統一ドイツへ向けて動く中でハプスブルク家(=オーストリア)って言うのは東欧での多民族国家建設へ動かざるをえなかった。ってゆーか歴史的観点から言えばこれこそが史上稀に見る超民族性を持ったハプスブルク家の存在意義だったんじゃないか?とも思ったりする訳で。 |
|
|
4月11日 |
|
|
|
4月12日 |
|
|
|
4月13日 |
|
|
|
4月14日 |
|
|
|
4月15日 |
|
|
▼慈円生まれる(1155) |
|
「愚管抄」で有名な天台宗の僧侶。鎌倉時代初期、天台宗の親分とでも言うべき天台座主に四度返り咲いた。ただ慈円の生まれを知ればそれも当然のお話で、慈円の親は関白・忠通、そしてお兄さんは当時朝廷で絶大な影響力を有していた九条兼実。そりゃ出世もするでしょ、みたいな。
「愚管抄」全7巻は日本最古の史論書として有名。成立は1220年(承久2)。承久の乱を目の当たりにした慈円が原点へ帰ろうとしたあたりはわからなくもありませんね。最終巻では過去の反省から現代を批判して未来への展望を語ってるあたりはさすが。文章そのものはいわゆる「和漢混交文」で簡単なもの。訳文あればぜひ目を通してもらいたい数少ない古書だったりします。 |
|
▼金日成(キム・イルソン)生まれる(1912) |
|
ソ連軍に参加していた貧乏青年「金聖柱」は第二次大戦終結と同時に、抗日戦のレジスタンスとして大活躍した「キム・イルソン」へと生まれ変わります。当時多くの人間が「キム・イルソン」と実際の「金日成」の違いに疑問を持ってたにも関わらず、強引に押し通すあたりはさすがはスターリンをバックに付けただけのことはあるって言うか。 実際「キム・イルソン」は多くの人間が名乗ってただけに、検証すればするほど無理が出て来るんですよねぇ。(このパターンの逆が日本武尊)
ソ連のバックアップで軍部も握った金日成は着々と独裁体制を築いてくんだけど、中ソ論争ではソ連を批判し、66年の中国との対立で国際的孤立は決定的となっちゃう。でもここで「チェチェ思想」と言うマルクス・レーニン主義を北朝鮮に合わせて曲解した思想を展開。チェチェ(=主体)ってのは金日成曰く「自国の革命と建設に対して主人らしい態度をとる」ことらしくって、要は「俺様の言うことを聞け」と。どのような体制であっても儒教色は色濃いだろうとは思うけどここまであからさまに言わせておいても尚、「偉大なる指導者様」なんだから大したもの。
(残念なことだけど)そこまで抗日レジスタンスの「キム・イルソン」が持ち上げられるってことは、よほど日本軍に恨みがあるのでしょうね>半島の方々
金日成は94年に金聖柱ではなく、金日成としてその生涯を終えます。98年の憲法で国家主席制が廃止、金日成は最初にして最後の国家主席と規定され「永遠の主席」となったのです。 |
|
|
4月16日 |
|
|
▼足利尊氏入京(1333) |
|
元々尊氏(この当時はまだ高氏)は後醍醐天皇が企てた元弘の乱を鎮圧させるために幕府から派遣された人間で、途中で寝返って天皇側についたってお話は周知の通り。これがその時です。この時尊氏は楠木正成が立て籠もる千早城攻略を命令されていたんだけど、後醍醐天皇隠岐脱出の報を受けてそのまま六波羅探題へ攻め込み5月に滅ぼしてしまいます。
尊氏って言うか足利家っていうのは当時の源氏の中でも新田など足下にも及ばない程の名族で、幕府でもかなりのポジションに居た。にも関わらず倒幕に向かったのは一にも二にも北条氏への反感である。(遺言のお話云々、アレは作り話)
得宗家専政状態では北条氏以外の武士団に不満が溜まるのは、当たり前と言えば当たり前なんだけどねぇ。 |
|
▼金閣寺上棟式(1397) |
|
足利義満が出家後の邸宅として西園寺家の山荘、北山第を譲りうけて大改修したのがこの金閣寺。純金箔押しの舎利殿は当時から施されていたらしく、その頃から既に金閣と通称されていたとか。正式名称は鹿苑寺と言うのは有名だけど、これは義満死後に遺言によって禅寺となっただけのお話。義満存命時は北山殿と呼ばれてた。
また、あの敷地全体を鹿苑寺(金閣寺)と言うのであって、あの金ピカの建物だけを指して金閣寺と言うのは間違いだったり。でも「金閣」と言うのは正解だったり。(ややこしいでしょ)
他の建物は焼失したり移されたりしてアレしか残っていないのが混乱に拍車を掛けてますな。ま、どうでも良いんだけど京都の人はそーゆーのにうるさかったりするのだ。(京都で「大文字焼き」なんて絶対言っちゃダメ。必ず「五山の送り火」と訂正される)
かつては金閣の背後には二層からなる天鏡閣が控えてて、金閣とは2階でかけ渡した廊下で結ばれていたとされてる。贅沢ですねぇ。湯水のようにお金や人が使えるとこんなことができるんですよって見本かも。どこかの国みたいに、ただただデカイだけのものを作らないあたりはよろしおますな。 |
|
▼NATO本部設立(1952) |
|
NATOとは言うまでもなく北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization)のこと。その本部はパリに設置されてます。これも言うまでもなく仮想敵国ソ連の脅威に対して集団安全保障を確保するために結ばれた条約を元に設立された機構ですね。その中心となるのはヨーロッパ連合軍、これがいわゆるNATO軍と呼ばれる軍隊です。ただソ連崩壊と同年のワルシャワ条約機構の解体でNATOはその存在意義さえも揺らぎ始めた。
そんな中、99年に加盟国の安全保障だけじゃなくて地域の平和と安定を守るための域外軍事行動も許容されたり核軍備の所有も認められた。やりたい放題。
湾岸戦争当初、NATO軍がどうのこうのって言われていたのはコレに関係してるからなんですね。ま、加盟国にはイラクにも近いトルコも入ってるので加盟国の安全保障って理屈をつけようと思えばつけることできるんだけど。
加盟国は現在19カ国。(白、加、丁、仏、氷、伊、羅、蘭、諾、葡、英、米、希、土、独、西、洪、捷、波)
さてどれがどの国でしょう(笑) |
|
|
4月17日 |
|
|
▼三世一身法発布(723) |
|
朝廷が発布した田地開墾奨励法。自力で田地を開墾したら三世(子・孫・曾孫)の間、また古くからの池溝を利用して田地を開墾すれば、一代の間は収公しないことを定めた法令。班田収受法の口分田は6年で収公していたので期限が近づいたらまた田地が荒廃していったこととに対してとられた方策なんだけど、開拓なんていう大がかりなものができるのは人手を多く持つ貴族や社寺などに限られていた訳で。当初の思惑とは裏腹に、この法令を出したことで土地の私有化がどんどん進んでしまいます。同時にそれは口分田の不足を招き、朝廷は更に規制を緩和した「墾田永年私財法」を出して開墾を奨励することになります。これが公地公民制の息の根を止めたって感じでしょうか。律令の大原則である公地公民制が崩壊すると言うことは、それは同時に律令制の崩壊も意味する訳で。 |
|
▼下関条約調印(1895) |
|
日清戦争の講和条約。日本側全権は伊藤博文、清側全権は李鴻章。これ以前の第3回会談の帰途、李鴻章が狙撃されるという事件が起こったため、日本側があわてて休戦条約を結んだという経緯がある。その後この講和条約が調印されるんだけど、その内容は適当なサイトで見てもらうとして(←手抜きしたな)、中国や朝鮮を狙うロシアがこの講和条約の内容に黙ってるはずもなく、フランス・ドイツを巻き込んで三国干渉に至るんですね。この一件がこの後の日露戦争に繋がっていることは間違いなく。
ただこの日清戦争、元々は朝鮮の内乱を鎮圧するための出兵だったはずで、日本と清は一緒になって反乱を鎮圧しなきゃなんないんですけどね。(中国に攻め込んでたりするんだもんなー)
そしてこの日清戦争に負けたことで、眠れる獅子と畏れられていた清が実は張り子の虎だったことが発覚。一気に列強の進出を許してしまいます。ロシアはまんまと満州での鉄道敷設権を獲得、日本に替わって遼東半島を租借し中国東北部で一気に勢力圏を拡大します。そのロシアに対抗すべく日本はイギリスへ接近、日英同盟締結へ動く・・・ってことでこの下関条約(日清戦争)はその後の世界勢力図に大きな影響を与えてるんですね。 |
|
|
4月18日 |
|
|
|
4月19日 |
|
|
|
4月20日 |
|
|
|
4月21日 |
|
|
|
4月22日 |
|
|
|
4月23日 |
|
|
|
4月24日 |
|
|
|
4月25日 |
|
|
|
4月26日 |
|
|
|
4月27日 |
|
|
|
4月28日 |
|
|
|
4月29日 |
|
|
|
4月30日 |
|
|